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【証言】「日本人はみんな一文無しに」旧満州での貧しい生活…山田洋次監督 戦争の原体験1

2023年8月12日 18:00
【証言】「日本人はみんな一文無しに」旧満州での貧しい生活…山田洋次監督 戦争の原体験1

8月15日の終戦の日を前に、「男はつらいよ」など数々の名作映画を手がけた山田洋次監督が、旧満州から引き揚げた時の体験を語りました。当時の日本人にあった差別意識や、終戦後の貧しい生活、旧ソ連兵に略奪を受けたことなど、後世に残すため証言しています。

■「恥ずかしいけど差別はあった」旧満州で日本人は…

1933年。当時2歳の山田監督が家族と共に移り住んだのは、中国東北部に日本が主導して建国した旧満州。

父親は南満州鉄道の技術者で、転勤は多かったものの、不自由なく、豊かな暮らしをしていたといいます。

――太平洋戦争中、山田監督や旧満州にいた日本人の生活について

山田監督
「全く今の日本人には想像できないかもしれませんね。僕たち旧満州にいる日本人というのは、まるで自分の国のように思ってたからね。形の上では一応独立国なんですよ。満州国と言ってね。 そんなことは僕はあんまり考えたことなかった。 もちろんパスポートも何もあったもんじゃない。 簡単に日本人は出入りできたしね」

「大体は威張ってたね日本人は。中国人はみんな貧しくて。例えば大連にしても、奉天にしても、新京にしても、街を歩く人は服装だけで区別がついた」

「貧しい服を着てるのは中国人だった。 綺麗なスーツを着たり、着物を着たりしてるのは日本人だった。馬車や人力車が走ってるけど、馬車の御者は中国人だし、人力車を引く人はみんな中国人だし、乗ってるのは日本人。 そういう風に、支配・被支配っていうのがはっきりしてたんです」

「心が痛むんだけど、人種差別というのは、はっきりありましたね、日本人には。とっても恥ずかしい話だけどね。 それが、あの時代の満州ですね。小っちゃい時からそういうものだと思っていたんだけども。でも時々『あれ? そんな事でいいのかな?』っていう思いは少年の僕には全くないわけじゃないね」

「例えば、知り合いのおじさんと一緒に馬車に乗って、料金の問題でもめて、いきなり御者をぴしゃりと殴っちゃうみたいな。日本人は当たり前だったんですね、それが。だけど子供心に『ああ、かわいそう』『あんなことしなくてもいいのに』という。 そのおじさんは、決してその僕たちに対して暴力的な人でも何でもない。面白いおじさんなんだよ。 それが突然、中国人に対すると、威圧的な態度をのぞむっていうのは、『なんか変だな。 良くないな』って気持ちはあったねって子供心にね」

■復讐されるかも…終戦で一変した街

しかし、1945年。日本の敗戦で生活は一変します。中学2年生だった山田監督は、終戦を大連で迎えました。

山田監督
「日本が負けるなんて、これっぽっちも思ってないわけだ。 それが8月15日。終戦の天皇の詔勅っていうのを僕たち聞いてね。 聞いた時わからない。何を言っているのか。難しいし言葉がね。ラジオは悪いラジオだし」

「勤労動員で働いてたのだけども、『今日は作業をやめてみんな家に帰れ』っていう命令が。 『なんで今日やめるんだよ 』ってわからないんだ、まだ負けたってことは」

「それで帰る支度をしてる頃に友達が教室に入ってきて、『おい日本が負けたらしいぞ』っていう。『どうして?』と聞くと、『いや先輩はそう言ってるよ』とか『先生に聞けよ』と。先生もちゃんと言わないんですよ」

「急に怖くなったね。つまり、僕たちは中国人に復讐されるんじゃないかと。僕たちは急ぎ足に、学校から家に向かって逃げるように走っていったもんだよね」

「学校は小高い丘の上にあってね、坂を降りて行くんだけど。 この左側が中国人街。中国人街は、平屋ばっかりで、貧しい家が、だーっと並んでる何千軒も。反対側は日本人の豊かな街なんだ。はっきり分かれていて」

「その中国人街の、黒っぽい屋根瓦がびっしり並んでいて、そこに何百本と中国の旗が立っているんだ。青天白日旗、今の台湾の旗がね。当時中国は、国民党で統一していたから、まだ毛沢東の軍隊とかが来てなかったからね。だから青天白日旗といえば、日の丸に対する敵の旗だったんだな」

「その敵の旗が、ばーーーっとあるわけだよ。 それはびっくりだね。つまり、中国人は、知っていたんだ。 前もってみんなが旗を用意をしているわけ。 俺たちよりも、何日も前から日本が負けるという事を知っていたのだ。“8月15日は日本がおしまい”だと知っていたんだと思ったら、ゾッとしたね。 そして俺たちは何も知らないっていうことね」

■「日本人はみんな一文無しに」終戦で全てを失った生活

山田監督
「これから何が起きるかさっぱり見当もつかないし、想像もつかないし、第一にいつ日本に帰れるのか。 もちろんその日を境に、銀行も、郵便局も、不動産、あらゆる資産が全部ストップになっちゃって。日本人はみんな一文無しになっちゃうわけだ。 ぴたっと収入も無くなるわけだ」

「これからどうやって食っていくんだっていう問題。 僕はまだ中学生だったからね、そこまで考えてなかったけど、親父なんかやっぱり相当心配だったんじゃないかな」

「もちろん全員ストップだよ給料なんか。 だから現金しか使えないだろ。でも現金なんかすぐになくなっちゃうからね。 やっぱり、まず最初に売り食いだったね。色々着物とか、背広とか持っているじゃない。 そういうのを中国人の金持ちや、大連はロシア(旧ソ連)軍が占領したから、お金持っているロシアの将校たちに街頭で売るのね。地べたに並べたり、手に持ったりなんかして。そうやって少しずつ売って、お袋の着物1枚売って、それで何日か食いつなぐとか、そんなことがあったな」

――敗戦後の食糧事情について

山田監督
「もちろん配給なんかがあるわけじゃないから。食料を売っている市場みたいなのに中国人の店が並んでいるわけだ。 そこにお米とかがあるんだけれども、どんどん物価が上がって、米なんかとても買えないわけ高くて。それで、粟も買えないわけ」

「それでコウリャン。コウリャンは大体馬が食べるものなんだけど…でもコウリャンしか買えないから。コウリャンを買って帰って、それをグツグツ、1時間も2時間も煮て、真っ茶色の変な、わけわかんないご飯になっちゃうんだけど…それを食べる。そんな生活がそれからずっと1年ぐらい続いたね」

「それから売り食いの他は、アルバイトだな。 僕らもみんなアルバイトしてた。日当がでる仕事というのがあるから。例えば、ロシアの軍隊に行って、軍隊の物運びを手伝ったり、ロシアの将校の家に行って掃除したり」

「ある宴会の時、ウォッカの運び役なんかをやってね。ボーイみたいな仕事だな。そんな事をして、いくらかお金をもらうとか。多少親父に渡したり」

「全部、持てるものはみんな売っちゃったね。もう売る物も何もないし、燃料も石炭なんかも買えないから冬は寒いだろう。 そうすると、家具を壊してストーブにくべるわけね。 あと本だね。 立派なチェーホフ全集とか、バルザック全集とか立派な本が、僕の知り合いが持っていて『これみんなやるよ』と言われて、それを壊して焼くのね、それが燃料ね」

■なけなしの金で母が買ったピーナッツ

山田監督
やっぱり必要なカロリー取らないと、体力が落ちていくだろう。お袋がなけなしのお金でピーナツを買ってくるわけ、南京豆を。それを夜になると、貧しいご飯を食べた後で、僕は男の兄弟ばかりだけど配給するわけよ。 1人15個ずつよみたいな」

「『お兄ちゃんはちょっとお体大きいから20個よ、お前は10個よ』なんて。そう数えて、それをひとつずつ丁寧に食べる。だから、これ今でも、南京豆を食べると、なんか幸せな気持ちになる。ピーナツなんてのは、本当におなかいっぱい食べたいなといつも思ってたけどね」

■突然泣き出した母…固い黒パン巡る兄弟げんかで

山田監督
「黒パンが手に入って、ロシア軍のね。それで大騒ぎしてそれを切るわけだよ。兄弟はお袋の手元見てるわけだ。 お袋はなるべく均等にする。それから、『これはお兄ちゃんで、これがお前、これが弟で』こう分けてくれる。すると、『大きい』とか『小さい』とかで兄弟げんかが始まるわけだ」

「ある時、突然お袋がわーっと泣き出したことがあったね。 包丁を放り出してさ。一瞬僕たちは、何が起きたのかわからなくて、ぼーっとしてるんだけど。要するに悲しくなっちゃったのね。 その固いパンを巡って兄弟が喧嘩している姿がね。妙に覚えているな」

「中学2年としてはさ、なんか胸が痛むっていうか。なんかこういうのはよくないなっていう事をした。 それは、わかるのよ。パンを巡って兄弟げんかするのは良くないってことはね。お袋が泣くってことで初めてわかるわけだな」

■「着物を持っていった」山田監督が見た旧ソ連軍と中国の軍(八路軍)

――他の引揚者からは旧ソ連兵に暴行されたり、中国人からひどい目にあったりという話がある中、大連の状況は?

山田監督
「僕たちは中国人に復讐されるという恐怖を持っていたけれども、そういうことはなかったですね、中国の人たちは、その辺はね、きちんと優しかったな」

「でもロシア(旧ソ連)の兵隊は乱暴だったよ。突然家の中に入ってきて鉄砲で俺たちを脅かしておいて、タンスをあけて着物を、だーーと持っていったりして。そういうことはずいぶんあったけども。僕のお袋なんかは逃げるわけね、屋上に」

「だけど間もなく、中国の軍隊に交代したの。 当時まだ八路軍って言ってたね。 国民党の蒋介石の軍隊と、毛沢東の軍隊(八路軍)が、共同して日本と戦ってたんだな。 やがて日本が負けると両方が戦う。そして国民党はどんどん負けて、台湾に行ってしまうんだけど」

「その八路軍がロシアと協定を結んで、ロシアと交代して、八路軍が治めるように。この軍隊が来てからはピタッと平和になったね。 八路軍てのは本当にね、なんか秩序正しいっていうか、道徳的っていうかね、きちんとした軍隊だったね」

――旧ソ連の軍隊の秩序は?

山田監督
「ロシア軍はだいぶ乱暴だったね。 そうは言っても、ロシアの将校達と結構付き合っていたけどね。(アルバイトで)使ってもらっていたわけだから」

「『夜、今日パーティーだから夜働きに来い』って言われて、僕なんかは片言のロシア語を覚えるわけだ。 夜行くとみんな集まって、うわーっと大きな声で、彼らはすぐコーラスをするんだ。いい声でロシア民謡を歌うんだよ」

「その間を、お酒を運んだりなんかして。台所で黒パン…黒く固いパンがあるんだけど、そのクズが落ちてるんだよね。 それをポケットに入れて、持って帰ったりしてたね」

――旧ソ連兵に略奪された時に思ったこと

山田監督
「“戦争に負ける”とは、こういうことなんだろうなって。 だって日本の軍隊も同じことやっていたんだから中国で。全く同じことをやっていたんじゃないかな。反抗すると、殺しちゃったりもっとひどいことをやったんじゃないかな。そういう話はよく体験者から聞くけどね」

「食料も何も持たずに、つまり食料補給なしに戦争してたんだからね。 現地でどんどん調達しろと。現地で、農家で、食べ物をとれっていうことだからね。 そういう戦争だったから。中国の人たちは本当につらい思いをしたんじゃないかな。だからロシアの兵隊がやったことも同じことなんじゃないの」

「もちろん、もっと(旧満州の)北の方の開拓部落みたいなとこでは、もっとひどい目に遭ったって話をいろいろ聞くけどね。 大連では、そんなことはなかった気がしたけどね」

■「僕の宝物はきっと燃料に」引き揚げ当日に見た光景

敗戦から約2年。大連から博多港に引き揚げることなりますが…この時、山田監督は少年時代に大切にしていた“宝物”を失うことになります。

山田監督
「僕たち少年としては、ただただ早く引き揚げの日が来ないかなと。引き揚げて、日本に帰れば、こんなつらい思いをしないで済むようになるんだと。それでようやく日本に引き揚げる日が来て、引き揚げたんだけども」

「(引き揚げが)何月何日てのが一応決まるわけだ。司令が来るわけだ。 この町内は何月何日の何時に集合。 そして、いつの船に乗るみたいな。その日を目指してみんな帰る準備をする」

「それでリュックサックと手で持てる物しか持って帰れない。もちろん家具なんかは持って帰れるわけがない。大事な物は全部売って、品物が少なくなったけど、それでも、何を持っていくかは、毎晩、毎晩、議論するわけだよな。荷物を作ってみて。『入りきらないな、これやめようか』とかいうね」

「僕は落語が好きだった。少年時代からね。 小学校4年生の時に親父ねだって、講談社の落語全集という、こんな厚い上下2巻の本があったんだよ。それを買ってもらって、僕の宝物だったのね。繰り返し、繰り返し読んでさ、クスクス笑っているような少年だったんだ」

「最後の日。いよいよ明日っていう時に、今日もう一回ちゃんと作ろうっていうので、みんなで集まって荷物を作るんだけども。俺が落語全集を入れたら親父が怒るんだよ。『お前そんな重い物を入れるもんじゃない!』『もっともっと大事なものあるじゃないか!』着替えとかさ」

「落語全集なんかより大事な物はいっぱいあるんだからと。『どうしても』といっても『ダメだ!』と。俺は泣く泣く落語全集を置いたままね、日本に帰ってきたんだ」

「難民の列を写真で見るでしょ。大勢…みんな荷物を担いで歩いている。ウクライナでもそういう人たちいっぱいいたけども。ああいう人たちにはやっぱり、そういう場があったのかなと思うね。家族集まって『何をこの袋に入れていくんだ』と。『そんな物を入れちゃ駄目だ』とか」

「同じようにそういう日があって。そして、『これでさあ出かけよう』と。 『これでこの家は見納めだよ』と言って子供たちと一緒に別れる。家を離れる日があったんだろうなって。そういう写真見ると、すぐに想像しちゃうね」

――落語全集のその後は?

山田監督
「(家は八路軍に接収されたため)僕たちがいたのは、昔の古い病院。閉鎖された病院を直して、そこに日本人が集団で暮らしていた。一部屋に一家族みたいな。一棟に50~60人が住んでいたんだけど。この棟が『何月何日の朝9時に引き揚げる』と大体わかるわけじゃない。近所の中国の人たちも」

「その日はね、中国の貧しい少年たちがいっぱい来てんだよ。空き家になったら中に入っていくんだ。いくら僕たちが貧乏であっても、色んな物を残していく。それを取ろうと思って待ってんだよ」

「僕たちはリュックサックを担いで出てくるだろ。それで道路まで出て振り返ったわけだよ。 そしたらね、中国の少年たちが、うわーっとそこに入っていくのが見えるんだよ。 貧しい少年たちがね。片っ端から欲しいものを取るんじゃないのかな」

「その時に『ああ、あの落語全集も、あの少年が取るんだろうな』と思ってね。だけど、日本語の本を読めるわけがないじゃん。絶対焚きつけたよな…きっとストーブに。くべられちゃうんだなと思って、とても情けなかったね。“俺の宝物”が、彼にとっては、単なる“燃料”でしかないんだなあと思って」

2へ続く

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