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【証言】「砂糖で1日を過ごせと…」引き揚げ後も続く飢えとの戦い…山田洋次監督 戦争の原体験2

2023年8月12日 18:00
【証言】「砂糖で1日を過ごせと…」引き揚げ後も続く飢えとの戦い…山田洋次監督 戦争の原体験2

8月15日の終戦の日を前に、「男はつらいよ」など数々の名作映画を手がけた山田洋次監督が、自身の戦争体験を語りました。

■日本に引き揚げても続いた“飢え”

敗戦から約2年後、旧満州の大連から博多港へ引き揚げることになった山田監督。帰国後は、山口県宇部市の親戚をたよることになります。

山田監督
「日本に帰れば、こんなつらい思いをしないで済むようになるんだということで…ようやく引き揚げる日が来たんだけど、日本もある意味で、食料品は同じだったね。飢餓状態は日本に帰ってもずっと続いたね、それから」

「考えてみたら僕の世代というのは、だいたい小学校の4、5年の頃から始まって大学を出るまで、ずっと飢餓状態だったと言えるかもしれないね。お腹はすきっぱなしでね」

■「砂糖で1日を過ごせと…」帰国しても貧しい生活

山田監督
「(旧満州から引き揚げる前は)日本の食糧難なんて、何の情報もないんだから。日本がどうなってるのか、全くわからないわけだ。日本がこんなに食糧難になってるなんて、想像もできないわけよ。だから驚いたね、日本に来てね」

「1日にお米が、2合何勺とか、決まってんだよな、全部配給でね。 お米が配給になれば、まだいい方。お米も無いから代わりに、麦だとか、代わりにサツマイモだとか。一番ひどい時は代わりに、黒砂糖が来たことあったね。 要するに外国から援助物資がいろいろ来るわけだ」

「(黒砂糖は)精製していない真っ黒けなね。 甘いことは甘いんだけども…そういう砂糖が、カロリー計算して、換算してくるわけよ。 だから、(配給のお米が)1日に、2合5勺が1人分だとすると、その分のカロリーを計算して、何十グラムかの砂糖が来るわけ。それでもって1日過ごせっていってるんだからね。 ずいぶん乱暴な話なんだけど、そんな時代があったね」

■「売れ残ったらいつでも来なさい」…貧しい時代に勇気をくれた人情

山田監督
「逆に言えば、そういう時代だからこそね、“人の優しさ”みたいなことは忘れられないってかな。 色々なことがあったけども。中学3年なんだけどね。でも、親父はずっと収入がないから、僕たちアルバイトするわけよ。いろんなアルバイトあったね」

「焼け跡を片付けに行くアルバイトとか、進駐軍の病院に使役って言うかね、掃除したり、草取ったり、石炭を運んだり、そういう労務者として、働きに行くアルバイトとか。あと闇屋ね。まだ、ほとんどの物資が自由に売買されてない時代だから、お米をはじめとしてね。だから闇物資を買わないと食っていけない。とても値段も高いんだけど。その闇物資を運搬するアルバイトがあったわけだ。 遠くまで汽車で運びに行ったりね」

「これも闇の一種なんだけども、僕のいた山口県の宇部市って街は海岸だから、海岸に小っちゃな掘っ立て小屋みたいな工場を作って、そこで、ちくわを製造してるのね。 まともな肉じゃないんだよ。 フカ(サメ)とかさ、エイとか、そういう安い、質の悪い肉を使ってちくわをを作るんだ。 サメの肉なんて、アンモニアの臭いがして、とても普通は食べられないもんなんだけど、当時はそれでも貴重だったんだね」

「それで、その海岸の工場に行って、それを仕入れるのね。 みかん箱を持っていって。50本60本買っておいて、自転車に乗って、街の色んなお店に卸して歩くの。 『おばさん、ちくわいりませんか?』って言って。『10本置いていきなさい』なんてね」

「ある時にたくさん残っちゃったんだよ。30本も40本も。それで困ったなあと思って。 家に持って帰って、みんな食べたとしても大損だしね。 それでふと考えたのが、山陽線の西宇部という駅があって、その駅の近くに、民営の競馬場(当時の草競馬)があったんだな」

「その競馬場に行くと、周りに屋台店がいっぱいになるわけだ。焼き鳥や、おでんなんかを作ってるから、そこに行ったら売れるんじゃないかなと思ってね。はるばる自転車をこいで、そこまでいって。それで一軒の屋台店に入って…本当に粗末な屋台店だよね。 そこのおばさんに、『あの…ちくわはいりませんか?』と。おでん屋さんだったけどね」

「そのおばさんが俺に、『あんた中学生かい?』なんて聞いて、『そうなんです』と。『中学生なのに働いているのかい?』なんて言うから、『引揚者だからね。父親の仕事がなくて学費稼ぐために働いています』と言ったら、『(残ったものを)みんな置いていきなさい』っていうの」

「『おばさんが引き取ってあげるから』『みんないいんですか?』『いいわよ』って言って。それで『坊や明日からね、もし残ったらいつでも来なさい。いつでもおばさん引き取ってあげるよ』そう言ってくれたのね」

「なんていうかな…何だか嬉しいっていうか、幸せって言うかな。帰り道に自転車で、なんか涙出てくるんだよ。なんていうか嬉しいんだな。 大げさに言うと、生きていく勇気を与えられたっていうかね。もちろん『よし明日から余ったら、いつでも、あのおばさんの所に行けばいいんだな』ということもあるよ」

「それを含めて、おばさんが『いつでもおいで』と、言ってくれた時の、何か思いやりみたいなものが、とても嬉しくてね。 少年の僕は、“頑張って生きていけばいいこともあるんだ”という、勇気かな。 そんなものを与えられた気がしたね。もちろん翌日からは行かなかったよ。一度もね」

「だから、僕にとっては本当"マドンナ"みたいな人だね。あのおばさんはね、もう顔も覚えてないけども、そういうことが時々起こるわけさ。 本当にいろんなことして働いたよ」

■食うや食わずの生活…映画作りの「原点であり限界でもある」

山田監督
「大学に入って、東京に出てきてね、寮で生活しているだろ。 色んな友達が、段々とできてくるわな。 その友達の生活を見ていると、ずいぶん俺と違うわけよ」

「引き揚げ前は、僕も“人の生活”をしていたけども。引き揚げてきてから大学に入るまでは、本当に食うや食わずの生活だったから。まずは“生きていく”“ 食べていく”ってことは大事なテーマだったわけだ」

「しかし、大学に入って友達の話を聞いていると、『父親と一緒に歌舞伎を見に行った』とかね。 『誰それのリサイタルに行ってとても良かった』とか、『親父の書斎に入り込んで、バルザック全集を一生懸命読んでいた』とか、そういう生活」

「そういう所からくる様々な"美意識"みたいなもの。 そんなものを僕の友人から感じ取ってさ。『ああ俺とは違うんだな』と思ったね。だから僕は、学生時代もそうだったし、映画監督になっても、僕にとってのテーマはどうしても、『どうやって生きていくか』ということで、『どうやって食っていくか』ということ」

「それは戦後のイタリアの映画界に起きた『ネオリアリズム』という運動、新しいリアリズム。 イタリアも日本と同じように敗戦国だから、貧しい中に民衆が懸命になって生きていくという。 『自転車泥棒』のような名作がいっぱいあるんだけど、そういう映画にすごく惹かれるわけ」

「だけど同時に『どうやって貧乏と戦うか』ってことが、『僕にとっての限界でもあるな』っていうことが思えてくる。そういうところから離れた『美』という世界についての関心を、思春期の時代にあまり抱けなかったって悔しさはあるね」

「絵を見たり小説を読んだりする時の受け止め方、音楽を聞いたりする時の美に対する感じ方の違いっていうかな。『リアリズム』っていうのは、“僕の原点”でもあるけども、ある意味で、それが“限界”にもなってくるのかなということ。時々思うね」

■"結局変わらなかった"ことが問題…日米安保条約めぐり

――国民に貧しい生活を強いたり、一人一人の価値観を決めるような情勢を作り上げてる政治や国のあり方について、監督が意識を向け始めたきっかけは?

山田監督
「それは僕たちの世代。あるいは僕たちの10年ぐらい後の世代も含めてだろうけども、学生時代は基本的に、常に戦っていたね。当時の権力とね」

「だから、しょっちゅうストライキしたり、デモしたり、特に僕の学生時代は、日米安保条約ができる時で、『そんなもんは結んじゃ絶対だめだ』と。それで『アメリカの植民地になっちゃうんだ。絶対反対しよう』という、大きな運動が日本中に起きてたからね。 それで、やめさせようと、僕たちしょっちゅうデモをしてたけど、考えてみると、『一生懸命政府に働きかければ政治を変えていけるんだ』っていうことを、ある程度僕たちはリアリティとして持っていたような気がするね」

「今じゃ想像つかないだろうけども。そのためにデモに行くんだという、この政治の方向を変えるためにね。 結局、変わらなかったんだけどそれはね。問題は、"結局変わらなかった"ってことなんだなあ…」

「変わらなかったことによって、“日本人は今とても幸せになっている”のか、“その逆”か。その辺のことだね」

■終戦直後 世界中で「絶対に戦争はやってはいけない」という思いがあった

――「戦争はもう絶対にやりたくない」という思いは?

山田監督
「もちろん世界中の人がみんな思ってた。1945年は、そういう年だろう。世界中の人が、『もう二度と戦争はやっちゃ駄目なんだ』と。『これからは平和な時代を作ろうね』と本当に思ったんじゃないかな、あの時の世界中の人たちは」

「これからもう戦争はしないとみんな思ったんじゃないか。ドイツ人もロシア人も、アメリカ人もイギリス人もフランス人も植民地の人たちもね。その中で日本は、特に平和憲法を持っていたから、これから日本は軍隊を持たないと」

「戦争による政治的な解決のために軍隊は戦争はしないと、はっきり憲法で言ったんです。そんな国は、世界にも他にないわけだからね。 それは『なんかすごいことだな』という思いを持っていたのはよく覚えてるね。それは僕まだ中学生だったけどね。これからこの国はこうなりますという」

「考えたらあのころ1946年、1947年、これはとても生活は貧しかったけれども、本当にお腹すいてたけども、『これから先、何か良くなるはずだ』っていう、なんか向こうに青い空が見えてる、そういう時代でもあったな」

「明るかったね。やっぱり。暗くなかった決してね。もっとひどくなるとも思ってなかったもの。 だんだん良くなり、良くなるに違いないと思ってたもんね」

■「無気力なことが大問題」今の時代に若者達は?

――1960年代、70年代のデモが激しかった時代を生きてきた監督は今をどう見ているか?

山田監督
「“怒らなきゃいけない”と思うんじゃないかな。 僕も老人だから、やっぱり“老人問題”について、『この国の老人は本当に安心して年をとっていけるのか』ということを考えると、とても腹が立ってくるんだよな」

「だけど行動に移せるかっていうと、なかなか移せない。 そういう無気力さに絶望してしまうという所があるんじゃないのかな。“なぜそうなっちゃったのか”っていう問題だね。」

――戦争経験者、証言する人などが年々減る中で、「戦争をしない」という思いを後世に残すため私たちがすべきことは?

山田監督
「それは“若者が考えるべきこと”であってね。なぜこんなに無気力になったかってことが、とても大問題だね。それ変えていかなきゃいけないよな。どうすれば変わり得るのか、このエネルギーがなくなってきたわけだろ段々。 恋愛もしなくなっちゃったっていうんだろ。 しんどいってね。本当それは恐ろしいことだね、恋愛も面倒くさくなってきちゃうってことはな」

■「“原子爆弾を全部やめよう”どうしても守れない」…自身の経験を振り返り戦争をどう思う

――旧満州での経験、帰国後の経験など振り返り戦争に対する思いは?

山田監督
「戦争は良くない。機関銃で相手の…敵の兵隊を殺す。そんな事が正当化されることが決してあってはならない。そんなことはみんなわかっている。『戦争はやめてトラブルは話し合いで決めましょう』と、わかりやすい事がどうして守れないのかって…絶望があるやね。ウクライナだけじゃなくて、いままでの局地的な戦争もそうだけどね」

「どうして鉄砲なんかを持ち出さなきゃいけないのかという問題だよね。1945年に何千万人が戦争で死んでしまった後、世界中の人が『もう二度と戦争はやめようね』と、その時はみんな誰も、進めたり反対する人はなかった。当然だよと」

「新しい戦後が出発したにもかかわらず、例えば『原子爆弾を全部やめちゃおうね』っていう事はどうしても守れないのね。それどころか色んな国が作り出したりなんかしてね。 原子爆弾なんて間違っている。 こんなもんやめた方がいい。“こんなわかりやすい事がどうして守れないか”ってことだな。人間はね」

「そういう深い絶望っていうか…ニヒリズムっていうか…その中で、“もう諦めてボーっとしている”ってのが、今の僕たちじゃないのかね。 本当にね…大変な時代になってきてるな」

「敗戦から70何年か…」

2023年8月15日。日本は78回目の終戦の日を迎えます。

3へ続く。

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