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79年前の現実 少年が遺した記録“戦火の日記”【バンキシャ!】

2024年8月12日 10:55
79年前の現実 少年が遺した記録“戦火の日記”【バンキシャ!】
今年で終戦から79年。バンキシャ!が注目したのは、兵庫県で暮らしていた当時13歳の少年が戦時中に書いていた日記です。そこには、少年の日常に、戦争が当たり前のこととして存在していた現実がつづられていました。(真相報道バンキシャ!

兵庫県加古川市の公民館に、“ある貴重な資料”が保管されている。

加古川市立尾上公民館・木村浩一館長
「これが日記ですね」

小さな字がびっしりと並んだ日記。太平洋戦争末期、当時13歳の少年が書いたものだ。

『7月17日(火曜)』
『昭美(弟)まめがおほく たべにくいものばかりで ごはんたび泣く
 お母さんも はがわるく たべにくい
 話しによれば ますます 米すくなくなる』

少年の名前は森本隆さん。母親と4人の幼いきょうだいと、現在の明石市で暮らしていた。食べ物が不足し、配給を受けても十分に食事がとれなかった時代。命の危険にさらされながら、13歳の隆さんは毎日日記を書き続けた。

『6月9日(土曜)』
『空襲明石へとうだん たいへんひびいた』

木村館長
「1日も欠かさず書いてある。それも13歳の子どもが書いている。これは貴重だなと」

309日間にわたる、克明な記録。そこには“戦火の日常”を生きる、少年の姿があった。

   ◇

1945年、日本各地がアメリカ軍の空襲にさらされていた。戦闘機の工場があった明石市も標的に…。6月9日には、600人以上が亡くなった。

その翌日、隆さんの日記。

『6月10日(日曜)』
『昨日の空襲で うをじゅうのむすめさん 明石公園で死んだ』
『川口の伯父さんもあぶなかった。 たつみやの明石の しんせきやられた』

空襲は続く。隆さんの家のすぐ近くにあった、大きな港。その沖合で「進徳丸」という商船学校の船がアメリカ軍の空襲を受け、6人が命を落とした。7月24日のことだった。

『7月24日(火曜)』
『今日は朝からけいほうでどうし 空襲二回。 家中でふとんかぶっていた』
『敵機がさってから またくるといけないと ふとんなんまいもかさねて たいひごうこしらへた』
『しょうせん学校の子 だいぶんしんで はらわたとびだしていたそうだ』

“日常の中にある戦争”を淡々と記録し続けた隆さん。どんな人だったのか──。

いとこの森本英敏さん。当時、隆さんの家で1年ほど、一緒に暮らしたことがあるという。

森本英敏さん
「物静かで聡明(そうめい)な人。いいお兄ちゃん」

強く印象に残っているという姿を、絵に描いてくれた。

森本英敏さん
「いつ見ても奥の部屋で、ランニングシャツ姿。座卓に向いて書き物してる」

体が弱かった隆さん。起きている時間のほとんどを机に向かって過ごしていたという。隆さんは、毎日の食事の内容もこと細かに記録していた。

『朝はいりまめに たいたまめ。
 ひるは むぎのたいたのと おからでだいよう。
 ばん おかゆに まめゆでたの すっていれた』

米が足りず、麦や豆で空腹をしのぐ毎日。それでも日記に不満を書くことはなかった。当時の隆さんの考えが、うかがえるものがある。

昭和19年、1944年11月。
「わが家の新聞」

戦地に赴いた父親に送った“近況報告”だ。アメリカ人を“ヤンキー”と呼び、こう書いていた。

『ヤンキにとどめをさす秋がやってきました。わが家もそのつもりで「カウヨリクフウ」「ホシガリハシマセン カツマデハ」「フソクハイヒマセン カツマデハ」でがんばっております』

“すべては戦争に勝つため”。当時の教育が色濃く表れていた。

そして、1945年8月15日。日本で終戦が伝えられたこの日、隆さんは日記にこう記した。

『ひるから天皇陛下おんみづからの
 ごほうそうといわれるので
 なにかいいことかとおもっていたら
 となりで むじょうけんこうふくとか 話している
 必勝をしんじきっていたので でまとばかりおもっていたのに
 ニッキをかこうとしてしり なんともいへぬかなしみ
 心では泣けてきた』

   ◇

それから79年の歳月が流れ、今月3日。兵庫県・加古川市に、隆さんの親族が集まっていた。向かった先は、近所のお墓。そこには隆さんの名前。終戦から3年後、病気で亡くなっていた。隆さんのめい・上田紀子さん。

上田紀子さん
「若い頃に亡くなったと聞いているので、会ったことはない。すごい賢い伯父さんがいたと、母からもおばあちゃんからも聞きました」

隆さんが遺してくれた、膨大な日記。上田さんには、これを読んでもらいたい人がいた。隆さんの親族で、中学生の琉詩(るんた)さんと紗翔(さやか)さん。2人にとって隆さんは、おばあちゃんのお兄さんにあたる。

上田紀子さん
「琉詩とさやちゃんは初めて見るから、『どう思うかな』と思って。1回見てみて」

15歳の2人。13歳だった隆さんとは同年代だ。

上田紀子さん
「どう思う?」

79年前の戦時下の暮らしに、うまく言葉が見つからない。

すると、琉詩さんが「『空襲2回』とか。『今日も朝から空襲2回』とか」と話した。

それは1945年7月、商船学校の船が攻撃を受けた日の日記。

琉詩さん
「『今日昼までに警報2回』とか。ずっと空襲がこの時はあったのかな」

紗翔さん
「ゆっくり寝られへんな」

隆さんの親族
「この辺は空襲2回だけど、(7月)28日は4回」
「1日の間に4回、空襲がくる。避難する感じかな」

朝も昼も夜も空襲におびえ続ける毎日。隆さんが見た現実を追体験していく。

紗翔さんが気づいたのは、「買うより工夫」「欲しがりません 勝つまでは」「学校でも同じことを習った」

学校で習った“あの時代”を、隆さんは生きていた。

──信じられる?「国のためなら自分のほしいものを我慢」という生活

紗翔さん
「いや、考えられない」

日記を読み終えて、感じたこと。紗翔さんは、「好きなものは買ってもらえて、ごはんも好きなものおなかいっぱい食べられて、いま当たり前に過ごしている生活は幸せなことで、絶対に当たり前だと思ってはいけない」

(8月11日放送『真相報道バンキシャ!』より)