79年前の現実 少年が遺した記録“戦火の日記”【バンキシャ!】
兵庫県加古川市の公民館に、“ある貴重な資料”が保管されている。
加古川市立尾上公民館・木村浩一館長
「これが日記ですね」
小さな字がびっしりと並んだ日記。太平洋戦争末期、当時13歳の少年が書いたものだ。
『7月17日(火曜)』
『昭美(弟)まめがおほく たべにくいものばかりで ごはんたび泣く
お母さんも はがわるく たべにくい
話しによれば ますます 米すくなくなる』
少年の名前は森本隆さん。母親と4人の幼いきょうだいと、現在の明石市で暮らしていた。食べ物が不足し、配給を受けても十分に食事がとれなかった時代。命の危険にさらされながら、13歳の隆さんは毎日日記を書き続けた。
『6月9日(土曜)』
『空襲明石へとうだん たいへんひびいた』
木村館長
「1日も欠かさず書いてある。それも13歳の子どもが書いている。これは貴重だなと」
309日間にわたる、克明な記録。そこには“戦火の日常”を生きる、少年の姿があった。
◇
1945年、日本各地がアメリカ軍の空襲にさらされていた。戦闘機の工場があった明石市も標的に…。6月9日には、600人以上が亡くなった。
その翌日、隆さんの日記。
『6月10日(日曜)』
『昨日の空襲で うをじゅうのむすめさん 明石公園で死んだ』
『川口の伯父さんもあぶなかった。 たつみやの明石の しんせきやられた』
空襲は続く。隆さんの家のすぐ近くにあった、大きな港。その沖合で「進徳丸」という商船学校の船がアメリカ軍の空襲を受け、6人が命を落とした。7月24日のことだった。
『7月24日(火曜)』
『今日は朝からけいほうでどうし 空襲二回。 家中でふとんかぶっていた』
『敵機がさってから またくるといけないと ふとんなんまいもかさねて たいひごうこしらへた』
『しょうせん学校の子 だいぶんしんで はらわたとびだしていたそうだ』
“日常の中にある戦争”を淡々と記録し続けた隆さん。どんな人だったのか──。
いとこの森本英敏さん。当時、隆さんの家で1年ほど、一緒に暮らしたことがあるという。
森本英敏さん
「物静かで聡明(そうめい)な人。いいお兄ちゃん」
強く印象に残っているという姿を、絵に描いてくれた。
森本英敏さん
「いつ見ても奥の部屋で、ランニングシャツ姿。座卓に向いて書き物してる」
体が弱かった隆さん。起きている時間のほとんどを机に向かって過ごしていたという。隆さんは、毎日の食事の内容もこと細かに記録していた。
『朝はいりまめに たいたまめ。
ひるは むぎのたいたのと おからでだいよう。
ばん おかゆに まめゆでたの すっていれた』
米が足りず、麦や豆で空腹をしのぐ毎日。それでも日記に不満を書くことはなかった。当時の隆さんの考えが、うかがえるものがある。
昭和19年、1944年11月。
「わが家の新聞」
戦地に赴いた父親に送った“近況報告”だ。アメリカ人を“ヤンキー”と呼び、こう書いていた。
『ヤンキにとどめをさす秋がやってきました。わが家もそのつもりで「カウヨリクフウ」「ホシガリハシマセン カツマデハ」「フソクハイヒマセン カツマデハ」でがんばっております』
“すべては戦争に勝つため”。当時の教育が色濃く表れていた。
そして、1945年8月15日。日本で終戦が伝えられたこの日、隆さんは日記にこう記した。
『ひるから天皇陛下おんみづからの
ごほうそうといわれるので
なにかいいことかとおもっていたら
となりで むじょうけんこうふくとか 話している
必勝をしんじきっていたので でまとばかりおもっていたのに
ニッキをかこうとしてしり なんともいへぬかなしみ
心では泣けてきた』
◇
それから79年の歳月が流れ、今月3日。兵庫県・加古川市に、隆さんの親族が集まっていた。向かった先は、近所のお墓。そこには隆さんの名前。終戦から3年後、病気で亡くなっていた。隆さんのめい・上田紀子さん。
上田紀子さん
「若い頃に亡くなったと聞いているので、会ったことはない。すごい賢い伯父さんがいたと、母からもおばあちゃんからも聞きました」
隆さんが遺してくれた、膨大な日記。上田さんには、これを読んでもらいたい人がいた。隆さんの親族で、中学生の琉詩(るんた)さんと紗翔(さやか)さん。2人にとって隆さんは、おばあちゃんのお兄さんにあたる。
上田紀子さん
「琉詩とさやちゃんは初めて見るから、『どう思うかな』と思って。1回見てみて」
15歳の2人。13歳だった隆さんとは同年代だ。
上田紀子さん
「どう思う?」
79年前の戦時下の暮らしに、うまく言葉が見つからない。
すると、琉詩さんが「『空襲2回』とか。『今日も朝から空襲2回』とか」と話した。
それは1945年7月、商船学校の船が攻撃を受けた日の日記。
琉詩さん
「『今日昼までに警報2回』とか。ずっと空襲がこの時はあったのかな」
紗翔さん
「ゆっくり寝られへんな」
隆さんの親族
「この辺は空襲2回だけど、(7月)28日は4回」
「1日の間に4回、空襲がくる。避難する感じかな」
朝も昼も夜も空襲におびえ続ける毎日。隆さんが見た現実を追体験していく。
紗翔さんが気づいたのは、「買うより工夫」「欲しがりません 勝つまでは」「学校でも同じことを習った」
学校で習った“あの時代”を、隆さんは生きていた。
──信じられる?「国のためなら自分のほしいものを我慢」という生活
紗翔さん
「いや、考えられない」
日記を読み終えて、感じたこと。紗翔さんは、「好きなものは買ってもらえて、ごはんも好きなものおなかいっぱい食べられて、いま当たり前に過ごしている生活は幸せなことで、絶対に当たり前だと思ってはいけない」
(8月11日放送『真相報道バンキシャ!』より)