終戦から77年 シベリア抑留…96歳元兵士「仲間の遺骨を日本へ」届かぬ思い ウクライナ侵攻の影響が…
終戦から77年。当時、旧ソ連の捕虜となった多くの日本兵がシベリアに連行され、厳しい強制労働の中、命を落としました。長年、遺骨の収集や死の真相をたどる調査が続いてきましたが、その活動にいま、ウクライナ侵攻が暗い影を落としています。
命を落とした仲間 探し続けて…
北海道・利尻島。良質なコンブとウニがとれるこの島に、壮絶な体験をした男性がいます。
吉田欽哉さん(96)。現役の漁師です。
戦時中、19歳で出征し、南樺太(現在のサハリン)に配属されました。終戦後、引き揚げ船に乗ったはずが、思いもよらない悲劇が起こります。
吉田欽哉さん
「船が向こう(逆方向)に行くんだもの。まさかシベリア連れて行かれるとは思わない」
対日参戦を表明したソ連が、1945年8月9日、南樺太などに侵攻しました。約57万5000人の日本人が捕虜としてシベリアに強制連行されたのです。冬はマイナス30℃にもなる厳しい環境で、鉄道の建設や伐採などの強制労働を強いられました。
これが「シベリア抑留」です。
吉田欽哉さん
「食べる物ない。何もない。腹が減って…腹が減ったら、ああいうことになるんでしょうね。石が、おはぎに見えるんです」
都内にある平和祈念展示資料館には、抑留者たちが暮らした収容所の様子を再現した展示があります。衛生環境も悪く、約5万5000人が命を落としたといわれています。
亡くなった人の埋葬も、抑留者の手によって行われました。
吉田欽哉さん
「ロープ持っていって、せいのこい、せいのこいって(遺体を)引っ張って、重いんですよ。それに腐って、においがして、最初すごかったんです」
吉田さんは、約4年間の抑留生活を生き延び帰国しました。しかし、忘れることができないのは、命を落とした仲間との約束です。
吉田欽哉さん
「手でかけて埋めてきたんだから。迎えに来るからなって。それが頭から離れないんです」
3年前、その約束を果たすため、吉田さんは厚生労働省の調査班と共にシベリアを訪れました。
吉田さんは「日本に帰るぞー」と叫び、抑留日本人の墓標をなでながら「寒かったな…」と涙を流しました。
仲間の遺骨を見つけるため、ツンドラの大地を手作業で掘っていきます。この時、人骨のようなものが見つかったといいますが、仲間の遺骨とは認められませんでした。
吉田欽哉さん
「墓地だなって思った所から、この石がひとつ出てきたもんだから」
遺骨の代わりに、小さな石をシベリアから持ち帰りました。吉田さんは「次こそは遺骨を持ち帰る」と胸に誓いました。
しかし――
新型コロナウイルスに加え、今年2月に始まったウクライナ侵攻により、ロシアへの渡航が禁止され、遺骨の収集ができない状況が続いています。
吉田欽哉さん
「自分の生涯あと何年あるの。10年ありますか」
「もう1回行って(遺骨を)持ってくるのが、これからの生きがいなんだから」
吉田さんは憤りを感じています。
戦後77年 初めて知った“父の命日”
厚労省は、遺骨収集の他にも抑留者の調査を行ってきました。
今年、ようやく父親の死の詳細を知ることになった男性がいます。
有賀勇次さん(79)
「これが、今回送っていただいた資料です」
横浜市に住む有賀勇次さんが見せてくれたのは、6月に厚労省から送られてきた資料です。
有賀勇次さん
「上が死亡診断書で、下が埋葬証書」
それは、シベリア抑留者となり、現地で亡くなった父・三津三(みつぞう)さんの当時の記録でした。
――どの情報が初めてわかった?
有賀勇次さん
「全部。発疹チフスに起因する肺炎で、脳溢血(のういっけつ)なんていうのもですね」
資料に記されていたのは、三津三さんが1945年9月20日、当時の満州・奉天で捕虜になり、12月5日にシベリアに到着したこと。そして、その翌年の3月3日に亡くなり、イルクーツク州のマルタ駅付近に埋葬されたことが記録されていました。
有賀勇次さん
「死亡した日にちがはっきりしたのと、埋葬されている場所がはっきりしたということで。あの当時の戦争のどさくさに紛れて、本当に埋葬してくれたかどうかもわからなかったですけど、そういう情報がいただけたことは、ありがたかったと思っています」
ロシアへの経済制裁の影響で
最期が確認された抑留者は、これまでに約3万9000人。依然、1万人以上が不明のままで、記録を待つ家族に届いていません。しかし、ウクライナ侵攻が始まり、資料提供の費用をロシア側に支払うことができなくなり、調査は中断しました。
厚労省 社会・援護局 援護・業務課調査資料室 手嶋和子室長補佐
「日本が経済制裁を発令したというところで影響を受けた。(資料提供に対する費用の)支払いが、いまできないために、次の資料の入手に結びついていない」
戦後77年。シベリア抑留者の記録をたどる作業は、いまだ終わりが見えません。