映像で振り返る戦後の秋田
終戦から79年が経ったことで当時を知る人が減り、戦争の記憶の風化が進むことが危惧されています。年代ごとに追悼や慰霊の形がどのように変わってきたのか。ABSのテレビ放送が始まる前のフィルム動画を含めてカメラが映し出した戦後の秋田を振り返ります。
「祖国のため命を失った3万5000柱の霊を慰める全県戦没者追悼式がこのほど秋田市山王体育館で厳かに行われました」
終戦から13年後の昭和33年=1958年に秋田市で開かれた戦没者追悼式。この日集まった遺族の数はおよそ2500人で、この年は遺児の代表が追悼の言葉を述べました。
遺児代表の言葉
「殉国の御霊よ どうか絶対戦争のない世の中となりますようお守り下さい。わたくしもお父さんのように立派に、お母さんのように我慢強く、社会の荒波に打ち勝って力強く生きていきたいと思っております」
「思いも新たに亡き人々を偲ぶ遺族たち。やがて秋田北高校生徒によって冥福を祈る御霊をたたえる歌が清らかに合唱されて追悼式の幕を閉じたのです」
その6年後の昭和39年=1964年に行われた秋田市にある護国神社の例大祭です。境内は大勢の女性たちで埋め尽くされていました。
「参列するのはほとんど戦没者の妻ですよ。最愛の旦那をなくしていますから」
こう語るのは半世紀近く県内の遺族会にかかわってきた秋田県遺族連合会の田口昭益事務局長です。
■例大祭70年
大黒柱を失った戦後大変な苦労をして生活してきた戦没者の妻たち。県内には当時およそ5200人がいましたが現在は16人まで数を減らしています。
秋田県遺族連合会 田口昭益事務局長
「戦没者の妻は全て100歳以上、そしてすべての方が(施設に)入所しているか介護を受けています」
70~80年代
1970年代から80年代にかけて県内では慰霊碑の建立が相次ぎました。
戦後県内で建立された慰霊碑はわかっているだけでおよそ180基。その多くは平和を願い続ける戦友たちの手で建てられました。
発起人(雪部隊親交会)
「戦争が悲惨だということは我々は本当に身をもって体験しております。これは終生の願いでございまして、この慰霊碑ができましたことでやっと安心して我々も忠霊の後を追えるというような感じでこざいます」
90年~2000年代
終戦間際の8月14日夜から翌15日の未明にかけて製油所が標的となった土崎空襲。
土崎港や対岸の向浜では2006年まで不発弾の処理が続けられてきました。港湾を管理する国土交通省によりますと、これまでに127個の不発弾が発見・処理されているといいます。
2000~2010年代
十七連隊歌
「大平山の峰高く雄物の川の水清し」
終戦間際、秋田の郷土部隊歩兵第十七連隊はフィリピンに上陸しました。
横手市に住む蔦屋勝四郎さん、当時94歳。
機関銃部隊の分隊長として、常に戦闘の最前線に立たされたという蔦屋さん。
蔦谷さん
「自分はどうなってもいい。代わりになってやろうという気持ちに。そうでなければ戦争できないよ。殺したの見て怖いからと逃げてきたら戦争ならないでしょ。そして血気盛んな若いときだから。やはり教育の力だな。教育というのは怖い。いいことも悪いことも教育だもの」
2020年代
鹿角郡市遺族連合会 大里亜樹男会長
「(出征から)77年ぶりにお家に帰るんでありますから、今晩は温かい布団と温かい白いご飯を仏壇にお供えして頂ければ幸いでございます」
終戦から長い年月が過ぎ、ここ最近は戦没者とは面識がない遺族が、遺品を受け取る例も増えてきました。
秋田県遺族連合会 田口昭益事務局長
「これは海上のほうの特攻です。戦闘員は現役および少年兵の志願兵 ということは皆さんのおじさんは昭和19年にこの部隊に入っています。その時二十歳です。赤紙は二十歳からなのでたぶん志願したと思われます この部隊に。 よほど国を憂いた方でいらっしゃると思う」
遺族が知る由もなかった戦没者の最後。遺品の返還に毎回立ち会っている田口さんは戦没者がどのようにして戦地に赴き、亡くなったかをできるだけ詳しく説明しています。
成田さんの姪杉本正子さん
「(先祖みな)喜んでいると思います。誰もかれもみんな亡くなってしまって、ほんと おかげ様でした」
戦争を直接知る人が減り続ける中、その記憶と記録をどうやって次の世代へと引き継いでいくのか。 来年は戦後80年という大きな節目を迎えます。