1484人犠牲の疎開船「対馬丸」…子どもの悲劇を語り継ぐ人 沖縄戦から77年
太平洋戦争末期の沖縄戦で、組織的な戦闘がはじまった日から77年。迫り来る戦火を前に、多くの子どもたちが犠牲となった悲劇を語り継ぐ人がいます。
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対馬丸に乗っていた平良啓子さん(87)「死体もよってくるし、波もぶつかってくるし、私はこのまま死ぬのかなと思った」
あの日、沈みゆく船の上にいた平良啓子さん。沖縄戦が目前に迫っていた1944年8月、啓子さんは当時9歳。本土へ疎開するため、家族6人で学童疎開船「対馬丸」に乗りました。
8月21日午後6時35分、1788人をのせ長崎に向けて出航。しかし、アメリカ軍の潜水艦にねらわれ、出港から27時間後の22日午後10時12分、魚雷が命中します。
平良啓子さん「“ボーン!”という音で目が覚めたら、もう船は水浸しになっていて、かたむいているわけ。子どもたちがもう本当に、つんざくような声で」
攻撃からわずか10分ほど。対馬丸は、鹿児島県の悪石島沖に沈没しました。乗っていた1788人のうち、1484人が死亡。子どもの犠牲者は1000人を超えました。イカダにしがみつき、生き延びた啓子さん。しかし…。
平良啓子さん「昼はもう太陽カンカンでしょう。皮膚がただれてくるのよ、ひりひりして痛くなってきてね」
終わりの見えない「漂流」。力尽きた人が1人、また1人と波に消えていきました。
6日後、150キロ流され、ようやくたどり着いたのが、奄美大島の宇検村。生存者280人のうち、21人がこの付近に漂着しました。しかし、生存者を上回る100体以上の遺体が、流れ着いていたのです。当時、生存者の救出や遺体の埋葬を行った大島安徳さん(95)。
大島安徳さん「本当にこの静かな湾が肉の海だったのよ。小さい子どもたちは目をひんむいたまま(亡くなっていて)、大人はサメにやられたんでしょう。腹なんかが食いちぎられていた」
大島さんたちは、海岸に50体ほどの遺体を埋めました。
大島安徳さん「においが臭くて埋められないわけよ。だから度の強い酒、焼酎を持ってきて、飲んだら感覚がマヒするでしょう。そうでなければ埋められなかったね」
一方、日本軍は、沈没が知られ戦意が下がることを恐れて、厳しい箝口令を敷きました。
大島安徳さん「軍刀を抜いてね、気をつけの姿勢をして『絶対にこれはよそに言うな!』と、それはつらかったな」
そして、島の人が止める中、助かったばかりの衰弱している生存者でさえ、連れて行ったといいます。
あの海岸には、慰霊碑が建てられました。そこには、犠牲者を弔う大島さんの歌も。
いまも残る後悔の気持ち。埋めた遺体は台風で流され、遺族は「せめても…」と遺骨の代わりに海岸の砂を持ち帰ったといいます。
大島安徳さん「私はそれを見ながら、涙が流れてね、なりませんでした。(遺体は)みんな胸にネームをぬいつけてあったんです。せめて、そういうのでもメモしておけばよかったのになと。後悔先に立たずです」
島で唯一の語り部となった大島さん。平和への思いを強く胸に抱いています。