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東日本大震災11年 それぞれの交“差”点 宮城

2022年3月11日 13:12
東日本大震災11年 それぞれの交“差”点 宮城

東日本大震災発生から、11年となります。被災した地元のテレビ局が「被災地の今と被災者の本音」を取材しました。今回は、宮城からです。

小学生の私がみた光景…。

伊藤記者「悲鳴とか泣き叫ぶっていう声よりは、ほんとにみんな、自分たちの町がとんでもないことが起きているんだなっていうのがわかって、見守ってるっていう感じでした」

自分だからこそ、伝えられることがある。いま、記者として故郷と、向き合おうとしています。ミヤギテレビ入社1年目の伊藤有里記者。石巻市雄勝町の出身です。でも、故郷の記憶は小学6年生で止まったまま。

伊藤記者「すごい私は、雄勝に関わってこなかったことに後ろめたさを感じていて、なにか、関わりたいなって思って、この報道、テレビの世界に入ったので」

雄勝は、養殖業が盛んな港町。震災前およそ4000人が暮らしていました。町の中心部にあった母校、雄勝小学校。あの時、校庭にいた伊藤記者はみんなと一緒に高台へと逃げました。

伊藤記者「あそこ震災前からまだ変わらない道路なんですけど、(そこ)に、波が…水がきてるのがみえて」

一夜にして変わり果てた町。200人を超える人が犠牲となりました。伊藤記者の自宅も全壊し、小学校卒業とともに雄勝を離れました。大学は東京へ。遠のいてゆく故郷。震災から11年。そこには伊藤記者の知らない町が出来上がっていました。

伊藤記者「なんでこの雄勝っていう土地を選んで、住み続けているのか?」

報道記者として、いま、伝えること…。若者たちは、どんどん町の外へ。震災後、人口は4分の1に減りました。震災が過疎に、追い打ちをかけていました。

廃校となった校舎を使った宿泊体験施設。ここで働く藤本和さん。伊藤記者の小学校の後輩です。

伊藤記者「がれきになって初めて山おりた時とかさ、こんなに自分の町狭かったっけ?」

藤本さん「そうですよね」

自宅を流され、一時は雄勝を離れた藤本さん。この町に戻ってきた理由があります。

藤本さん「雄勝離れたら『あ、結構雄勝好きだったな』ってことに気がつきましたし、こういうところがよかったなっていうのも、いくつもあげられるなってことに気がついて」

ひとりでも多くの人に戻ってもらうために自分たちが、雄勝の未来をつくっていく。

藤本さん「もしかしたら、自分たちが働く場所を作っていたりとかした時に、それを頼って、雄勝にもう1回住んでみたいなって子が、1人2人いないとは限らないと思っているので」

あの日の小学生が、社会人となり、故郷の新しい道を作っていく。そして、人々の思いを伝えていく。

伊藤記者「この10年間ずっと被災した人が身の回りにいて、その分いろんな声を聞いて育ってきたので、今まですくい取れなかった部分を少しずつ拾い上げていって、テレビを通して多くの人に伝えていけたらいいなと思っています」


NNNドキュメント2022年3月6日放送『3・11大震災シリーズ(99東日本大震災11年 それぞれの交“差”点~被災地の本音~』(テレビ岩手・ミヤギテレビ・福島中央テレビ制作)の宮城部分を再編集しました。