疎開船「対馬丸」の最期 子ども1000人超が犠牲…生死を分けた偶然、いま明かす思い 桝キャスターが取材【バンキシャ!】
ことしは、戦後80年。日本テレビは、「いまを、戦前にさせない」をテーマに、様々な特集をお伝えしていきます。
学童疎開船「対馬丸」は、アメリカ軍に撃沈され乗っていた15歳以下、1000人を超える子どもが犠牲となりました。今回、「バンキシャ!」では、その対馬丸が攻撃される瞬間をすぐそばを走る別の船から見ていた男性を取材。戦争が子どもたちに何をもたらすのか、カメラの前で初めて語っていただきました。
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先月21日、沖縄・那覇市にある「対馬丸記念館」に桝太一キャスターが向かった。
那覇市首里で暮らす、源河圭一郎さん(89)。あの日、海に沈んでいく対馬丸を別の船から見ていた。
沖縄に戦火が迫っていた1944年。学童疎開船「対馬丸」は子どもなど1788人を乗せ、長崎へと向かった。しかし出航の翌日、アメリカ軍の潜水艦から攻撃を受け、深さおよそ870メートルの海底に、いまも沈んでいる。犠牲者は1484人。そのうち1040人が15歳以下の子どもだった。
カメラの前で初めて語ってくれた源河さん。ささいなことが生死を分ける、その思いを戦後80年となるいまも抱き続けている。
源河さん
「別の船に乗るように言われました。それだけの違いです。運命の分かれ道というのは本当にわからない」
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太平洋戦争末期の1945年。沖縄にはアメリカ軍が上陸し、住民を巻き込んだ国内最大の地上戦が行われ、住民9万4000人を含む20万人あまりが犠牲になった。
その前の年、1944年8月21日、3隻の疎開船とそれを護衛する船、あわせて5隻の船団が疎開するおよそ5000人の住民を乗せ、沖縄から長崎へ出航しようとしていた。「対馬丸」は一番立派でかっこいいと、子どもたちが喜んでいたという。源河さんが乗ることになったのは、別の疎開船「暁空丸」だ。
桝キャスター
「いまからもう80年以上前になりますよね」
源河さん
「そうですね。昭和19年ですかね。そのときはまだ小学生でした」
午後6時35分、船団は長崎に向け出航した。
源河さん
「対馬丸が先に(港を)出たんですよね。私たちはすぐに、その後を追って」
源河さんは母親と一緒だったが、多くの子どもはひとりで乗船。しかし、さびしそうなそぶりはなく、疎開先での生活を楽しみにして、はしゃいでいるように見えたという。
源河さん
「冬になったら雪が見られるとか、雪の話が一番楽しかったですね。全然沖縄は降りませんから。ちゃんと事情がわかっていませんので、半分遊びたい気持ちもあったでしょう」
桝キャスター
「自分たちが戦争の中にいることはわからなかった?」
源河さん
「はい」
出航から27時間、船団は台風接近により荒れる海を進んでいた。子どもたちが寝静まった、午後10時12分。突然、爆発音が響いた。
源河さん
「ドカンとかなり大きな音がして。暗いところで起こっていますので、火柱が上がったのを見ております。これは大変だ。爆発したんだと」
アメリカ軍の潜水艦ボーフィン号が、船団に向け魚雷9発を発射。そのうち4発が対馬丸に命中したという。
そのときの様子を生存者が絵に残している。対馬丸の最期。激しく火柱を上げながら大きく傾く、対馬丸。そのそばには、波にのまれていく子どもたち。いかだにすがろうとする、子どもたち…。わかっているだけで1040人もの子どもが犠牲となった。源河さんはその壮絶な最期を、300メートルほど離れた船から見ていた。
桝キャスター
「対馬丸が爆発したときは、どこにいたか覚えていらっしゃいますか?」
源河さん
「甲板にいた。赤い色の柱が、ほとんど瞬間的。いつまでも残っているわけではありません。すぐに消えてしまうので、そういうのを見ていましたので。恐ろしいことになったなと」
魚雷が命中してからわずか10分後。
源河さん
「かなり大きな音がして沈んでしまった」
桝キャスター
「気がついたら対馬丸の姿はなかった?」
源河さん
「なかった」
源河さんら暁空丸に乗っていた人々はなすすべもなく、泣きながら見ているしかなかった。
源河さん
「(乗組員は)助けたら今度は自分たちが危ないんだと知っているので、絶対にそういうことはしなかった。それが戦争というものの恐ろしさだとも思います」
なぜ子どもたちを乗せた対馬丸が狙われたのか。
アメリカ軍が日本軍の無線を傍受したときの記録によると、日付は8月16日、子どもたちを乗せる5日前に対馬丸は上海から那覇へ向け出航。疎開船としてではなく、日本軍の兵士を運ぶ任務についていた。このときからすでに、アメリカ軍からマークされていたとの見方もあるが、狙われた理由はいまもわかっていない。
魚雷は源河さんが乗る暁空丸にも迫ってきたという。
源河さん
「魚雷が白波を立ててサっとそばを通り過ぎた。私の船は魚雷が当たらないようにジグザグの航路をとっていた。私たちは幸いだったとしか思えません」
対馬丸の沈没から2日後、ほかの4隻はアメリカ軍に狙われながらも奇跡的に長崎へ到着。しかし源河さんがおりたあと、暁空丸も那覇に戻る途中で撃沈されたという。源河さんは、ことし90歳。戦争で生死を分けるのはただの偶然だ、そう話す。
源河さん
「対馬丸に乗船した子どもたちは、那覇市民です。私は那覇市民ではなく(当時)首里市民でしたから。別の船に乗るように言われました。それだけの違いです。運命の分かれ道というのは本当にわからない」
直前まで疎開先での生活を楽しみにしていた、子どもたち。
桝キャスター
「しっかり写真を見るのは初めてですか?」
源河さん
「はい、そうです。300人くらいになりますね。並んでいる写真」
桝キャスター
「これでもまだ4分の1だそうです」
源河さん
「そうですか」
桝キャスター
「実際にはこの4倍の方々が…」
源河さん
「亡くなったんですね。こういうのを見ているとかわいそうで、もう。生きていたらどうなってたのかな」
あの日、生きるために沖縄を離れた子どもたち。対馬丸を含む5隻の船が出航した港は、いま。
桝キャスター
「本当に平和そのものですね」
源河さん
「沖縄のいいところです」
この場所で親たちは子どもの無事を祈り、手を振って見送った。
源河さん
「ああいうことだけはやめてほしい。対馬丸のようなことは」
桝キャスター
「戦争を始めるのは大人ですもんね」
源河さん
「そうなんですよね、子どもじゃないですから。自分たちが正しいと思うからやっているんでしょうけど。根本的に間違っています、本当に。人間って何をするかわからない。バカだなと思います」
(1月12日放送「真相報道バンキシャ!」より)