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【皇室コラム】「その時そこにエピソードが」第25回 <関東大震災とベルギーから贈られた絵画と中禅寺湖畔の別荘>

2023年11月25日 7:00
【皇室コラム】「その時そこにエピソードが」第25回 <関東大震災とベルギーから贈られた絵画と中禅寺湖畔の別荘>
有島生馬の油彩画「大震記念」(1931年、東京都復興記念館所蔵)

100年前の関東大震災を題材にしたその絵には、立ち尽くす日本人の中に一人の外国人が描かれています。海外から寄せられた義援金などの支援を象徴するベルギーの大使です。義援金や物資だけでなく、ベルギーからは絵画134点も贈られ、チャリティーの収益が復興に生かされました。震災の5年後、旧大倉財閥は長年の商取引の「記念」として国王に中禅寺湖畔の別荘を贈り、今も大切に使われています。未曽有の災害の頃に数々の秘話がベルギーとの間にありました。(日本テレビ客員解説員 井上茂男)

■支援の象徴として描かれたベルギーの大使

東京都慰霊堂と復興記念館がある墨田区の都立横網町公園。関東大震災で多くの人が避難し、火炎旋風に巻かれておよそ3万8000人が亡くなった慰霊の場所です。

記念館の2階中央展示室にその絵はあります。画家で文筆家の有島生馬が描いた油彩画の「大震記念」(198センチ×352センチ)。作家の有島武郎の弟、里見弴の兄で、フランスのセザンヌを日本に初めて紹介したことで知られる人です。

一面の焼け野原、人を巻き上げる火炎旋風、折れた鉄塔、もく浴する女性、復興に関わる人たち……。様々な場面を散りばめたコラージュのような絵には、「大震災の印象を部分的に描写せるものなり」というキャプションが添えられています。

右手の自動車の向こう。赤い服の少女の頭に手を置いて背広姿の外国人が立っています。ベルギーのアルベール・ドゥ・バッソンピエール駐日大使(男爵)です。滞在18年。原敬首相の暗殺や満州事変、国連脱退など、激動する日本を見ていた外交団の重鎮です。

大使は『在日十八年――バッソンピエール大使回想録』(磯見辰典訳、鹿島研究所出版会)に経緯を記しています。

「私は大将の横に夏服の姿でえがかれている。それは『日本に対する外国の援助』を具象するためであった。私は傍にいる日本の少女を励ましている姿勢をとっている。隣人であり友人である有島氏から、絵のこの部分のために彼の姪といっしょにポーズをとるように頼まれていたのだが、その結果、私の姿かたちは東京の博物館に残り、子々孫々まで伝えられることになったのだ……」

1923(大正12)年9月1日。大使は別荘を借りていた神奈川県の逗子で関東大震災に遭いました。サーフボードで遊ぼうとする子どもたちと海に入り、上がったところでした。激しい揺れに続く、吸い取られるような流砂と格闘し、津波から逃れようと全速力で高台の竹林へ走りました。一緒に海に入った子どもらも無事でしたが、大使は裸足でガラスの破片の上を走り、ひどい傷でした。

関東周辺では通信が途絶え、無事を本国に伝える方法がありません。その日のうちに東京へ向かう職員に秘書宛てのメッセージを預け、3日朝、そのメッセージは秘書から長野県の軽井沢へ向かう外国人に託されます。4日になって電報が軽井沢から神戸の総領事へ、総領事からブリュッセルへと打たれ、5日夕、ベルギーの外務省や家族の元に届きました。

6日に大使は東京へ戻ります。朝6時。暑さの中、友人から自転車を借りて逗子から横須賀へ向かい、そこから東京の芝浦まで曳き船に乗せてもらいました。波に漂う遺体を見ながら芝浦に上陸し、自転車をこいで麹町の大使館に帰り着きました。大使館は焼け残り、多くの人たちが避難していました。

■ベルギーから贈られた134点の絵画

『日本・ベルギー関係史』(磯見辰典・黒沢文貴・桜井良樹著、白水社)』によると、ベルギーの対応は迅速でした。5日には外務大臣が「日本人罹災者救済ベルギー国内委員会」の結成に動きます。ベルギー赤十字社などが協力し、各地で音楽会やバザーなどが催され、最終的に義援金は264万フランに上りました。それはアメリカやイギリスに次ぐ規模でした。

大使は『回想録』に記しています。

「現金、食料、衣類が世界各国から心温まる贈物として、日本に届いた。もとよりアメリカとイギリスから、もっとも莫大な救援がおくられてきた。しかし私は、わがベルギーが、この世界的連帯による大救援活動におくれをとらなかったといえることに、この上ない満足をおぼえるのである。私のもとに数百万フランの救済の金、ラシャ木綿の布地が大量にわが国から送られ、私はそれを日本政府に引き渡したのである」

ベルギーの支援はそれだけではありませんでした。ブリュッセルに住むエミール・バースという画家の提案により、画家や収集家から134点の絵画が集められ、日本大使館に贈られました。

1924(大正13)年10月、絵画は船で横浜に到着します。11月16日から22日にかけて「白耳義(ベルギー)国作家寄贈絵画展覧会」が内務省の施設で開かれました。

国立公文書館の文書によると、期間中の入場者は計3万817人、絵画の売上は計2万2635円に上りました。「時事新報」は「白耳義絵画展 全部売切れ 社会局ホクホク」と成功を伝えています。

展覧会には、貞明皇后や、結婚間もない皇太子時代の昭和天皇と香淳皇后も足を運びました。『昭和天皇実録』によると、昭和天皇は、ベルギーの美術家が同情を寄せ、絵画が多数寄贈されたことに感謝し、展覧会に関わった人々に謝意を伝えてほしい、と伝えています。

国立公文書館には「御買上品」と書かれた文書も残り、「皇后宮職」(貞明皇后)17点、「東宮職」(昭和天皇)18点など、宮家を含めて皇室で45点を求めたことがわかります。

■ベルギーで図書館の焼け跡を訪ねた昭和天皇

なぜベルギーの画家たちは絵画で日本を支援しようとしたのでしょうか。〝時代の空気〟がうかがえる記事がありました。

「心を打たれるのは、第四室にあるアルフレッドカーアン氏作の『殉難の白耳義』である。崩れ落ちた都を背景に涙にぬれ、ぼんやりとあらぬ方を見つめている喪服の女を描いてあるもので、欧州戦乱当時の悲惨がマザマザと思い浮べられ、我が震災に同情を寄せた気持がよくわかる」(1924年11月15日、読売新聞)

「欧州戦乱」とは、第一次世界大戦のことです。ベルギーは永世中立国でしたが、ドイツが侵入して激しい戦闘が行われ、多くの市民が犠牲になりました。「勇敢なる小白耳義」「白耳義国民はいかに困苦しつつあるか」……。東京朝日新聞は戦況を連日のように伝えています。

驚くのは1915(大正4)年2月3日の記事です。朝日の村山龍平社長が、ベルギー国民を励まそうと愛蔵の日本刀を特派員からアルベール1世国王に届けさせ、紙面で「白帝へ太刀捧呈」「白国皇帝謁見」と伝えています。

『朝日新聞社史(大正・昭和戦前編)』を見ると、「太刀献上」の詳しい経緯や、「社告」で「白国同情義金募集」を呼びかけたことが書かれています。「朝日関係」で計2400円を〝率先拠出〟し、財界の大口寄付もあって2万8800余円をベルギー公使館に贈っています。ベルギーへの支援が、第一次世界大戦の時に民間レベルで行われていたのです。

終戦から2年半後の1921(大正10)年6月、皇太子時代の昭和天皇はヨーロッパを訪問します。軍艦「香取」で往復した半年間の旅です。この時、昭和天皇はイギリスやフランスに続いてベルギーにも5日間滞在し、イープルなど大戦の戦跡を訪ねました。

イープルは戦争で初めて毒ガスが使われ、『ブリタニカ国際大百科事典』によれば、イギリスの派遣軍を含む連合軍約30万人が戦死した地です。それはイギリス訪問の折、ジョージ5世国王から「英軍の奮戦の跡をぜひ見てほしい」と勧められた視察でした。

「陛下ノ予ニ告ゲ給ヒシ如ク、『イープル戦場の流血凄惨』ノ語ヲ痛切ニ想起セシメ、予ヲシテ感激・敬虔ノ念、無量ナラシム」。昭和天皇は現地を視察してジョージ5世に電報を送っています。

さらに、オランダを訪問した後にもベルギーに寄り、ルーヴェンという都市を訪ねています。伝統あるルーヴェン大学は大戦でドイツ軍に図書館を焼かれ、古文書を含む貴重な蔵書30万冊を失いました。昭和天皇はその焼け跡に立ち、無言で説明を聞きました。

『皇太子殿下御外遊記』(二荒芳徳、沢田節蔵著、大阪毎日新聞社・東京日日新聞社刊)にその様子が記されています。

「この焼け跡に集まった幾多の群衆、ことにその中の学生は、実に熱狂的で、悲痛にも見えるほどの歓呼を殿下に対して集中した。彼等はよく殿下のご来訪が普通のご見学でなく、実に文化破壊の横暴に対するご弔問の義であるという事を知っていたからである」

2年後の1923(大正12)年4月。バッソンピエール大使の提案でベルギーから経済使節団が来日します。日本はベルギーからガラス薄板や鉄などを輸入していましたが、大戦で落ち込んでしまったからです。主要な商工業会社の経営陣からなる使節団は、新1万円札の肖像となる渋沢栄一ら実業家たちと交流を深めました。

バッソンピエール大使の『回想録』には、その時の渋沢の様子が記されています。当時80代の渋沢は若き日、徳川慶喜の弟の昭武(あきたけ)に随行して渡欧した際にベルギーでレオポルド2世国王に謁見し、「日本が強国になるためには工業化を進め、製鉄を盛んにしなければならぬ」と言われ、数々の産業を興す道に入った思い出を語ったそうです。

関東大震災の73年後。ベルギーから贈られた134点の絵画にスポットが当たります。1996(平成8)年10月、国賓としてアルベール2世国王夫妻と、フィリップ皇太子(現国王)が来日した時です。

上皇ご夫妻は国王一家の来日を控え、バッソンピエール大使の『回想録』を翻訳し、『日本・ベルギー関係史』などの著書がある上智大学教授の磯見辰典氏から話を聞かれました。磯見氏は関東大震災の折にベルギーから贈られた絵のことを話題にし、上皇さまは「皇居内に三の丸尚蔵館という美術館があるから、調べてもらいましょう」と話されました。

その様子を磯見氏は月刊『文藝春秋』(1997年4月号)に書き残しています。2日後、三の丸尚蔵館の学芸員から「5点が見つかった」と電話がありました。数日後に宮中晩餐会に出席すると上皇ご夫妻からも話があり、上皇后さまはうち1点が須崎御用邸(静岡県)の寝室の壁にかかっていると明かし、「やっと絵の由来がわかりました」と喜ばれたそうです。

上皇さまの説明から、磯見氏はその絵をエルマン・リシェールの「岩上の婦人」に間違いないとしています。昭和天皇が買い上げた絵の1枚です。

3か月後の1997(平成9)年1月、三の丸尚蔵館で展覧会「ヨーロッパの近代美術――歴史の忘れ形見」が開かれます。「長く忘れ去られていた美術作品の魅力を再発見していただければ」。「あいさつ」にあるように、17点の出品作品の中に、新たに確認されたベルギー寄贈の絵画から「ローマ聖ピエトロ大聖堂」(フランソワ・パイク)など2点が出品され、図録に「参考図版」として「岩上の婦人」など3点の写真が掲載されました。

三の丸尚蔵館の『年報』に当時の学芸員の大熊敏之氏が興味深い論考(「<白耳義国作家寄贈絵画展覧会>始末」)を書いています。大熊氏は、当時の美術ジャーナリズムが展覧会に〝冷ややか〟だったことを指摘し、作者の多くがアマチュアだったことを挙げて絵画は「あくまでもベルギーの人の『尊い真心』のあらわれ」で、それで美術史の中で忘れられていくことになった、という見方を示しています。

美術界の評価はともかく、「尊い真心」の背景には、昭和天皇のルーヴェン視察があるように思えてなりません。『御外遊記』が言う「文化破壊の横暴に対するご弔問」です。朝日新聞によれば、大正天皇は図書館の再建に1万円、宮内省は「古事記」などの古書を贈っていますから、〝弔問〟や民間の支援に対する感謝、返礼が、絵画の寄贈となったのではないでしょうか。「真心」を受け止めたからこそ、身近な御用邸に1枚が掛けられてきたと思うのです。

栃木県の奥日光にある中禅寺湖。湖面の向こうに男体山を望む国立公園の絶景の地に、ヨーロッパの大使館の別荘群があります。イタリア、イギリス、フランス、ベルギー。イタリアとイギリスは栃木県に寄贈されて公開され、フランスとベルギーは今も大使館が管理する別荘です。

ベルギー大使館の別荘は、駐日ベルギー大使館のホームページで「日本におけるベルギーの外交活動を説明する上で欠かすことのできない」と紹介されています。その経緯もバッソンピエール大使が『回想録』に記しています。

「大倉男爵は、私に、前年に亡くなった尊父が60年近くもベルギーと重要な商業上の取引きを行なっていたので、この関係を記念して、アルベール王に別荘をひとつ提供し、駐日ベルギー大使館の夏期別荘として使ってもらうことにしたと語った。男爵は、フランス大使の別荘に近い、中禅寺湖畔の実によい場所だと思うがどう思うか、と私にたずねた。アルベール王およびベルギー政府の同意を確かめたあと私は、この大倉男爵の寛大な申し出を受けた」

「大倉男爵」とは、東京の「ホテルオークラ」の創業者で、札幌五輪のジャンプ競技で使われた「大倉山ジャンプ競技場」を造ったことで知られる大倉喜七郎。「尊父」は、武器商人として事業を一代で発展させ、「大倉集古館」「大倉土木組(現・大成建設)」などの創設者として知られる大倉喜八郎です。

経済使節団が来日した折、喜八郎は隅田川のほとりにある東京の邸宅で一行をもてなしています。バッソンピエール大使の『回想録』には、大倉はすぐれた商才があり、新政府軍に武器を売って財産をつくったこと、長くベルギーと取引があり、使節団との間で「相当突っこんだ意見の交換をおこなった」とも記されています。

別荘はなぜ中禅寺湖畔に集まっているのでしょう。その事情を探っていくと、〝夏は外務省が日光に移る〟と言われるほど、外国人に人気の避暑地だったことを知りました。

中禅寺湖をとりわけ愛したのは、イギリスの外交官で、幕末に反幕の志士たちと交わり、駐日大使となったアーネスト・サトウです。

栃木県のパンフレットによれば、サトウは1872(明治5)年に初めて中禅寺湖を訪れ、1896(明治29)年に湖畔に山荘を建てています。そこには『日本奥地紀行』で知られる旅行家のイザベラ・バードも滞在しています。

今では日光から中禅寺湖へ「いろは坂」が通じていますが、人力車が通行できるようになったのは明治の半ばです。残された日記などによると、当時の交通手段は、徒歩か、馬、「椅子駕籠」、「担架のような駕籠」が頼りでした。駕籠は足の長い西洋人には窮屈で、多くは途中から自分で歩いて山道を登ったそうです。

『アーネスト・サトウ公使日記Ⅰ・Ⅱ』(長岡祥三訳、新人物往来社)には、湖畔で交流した友人・知人として、ベルギー、オーストリア、フランス、ドイツ、ロシア、ブラジルなどの公使が登場します。

ベルギー公使は、1893(明治26)年から日本に17年滞在して客死し、雑司が谷霊園に眠るアルベール・ダヌタン公使(男爵)です。エリアノーラ・メアリー・ダヌタン夫人は『日記』(『ベルギー公使夫人の明治日記』長岡祥三訳、中央公論社)の中で秋の奥日光について「これほど華やかな秋の紅葉を私は一度も見たことがなかった」と絶賛し、中禅寺湖で毎夏ヨットレースが行われ、サトウらと交友を深めたこと、皇太子時代の大正天皇を別荘前で迎えたことなどを記しています。

四半世紀後のバッソンピエール大使も『回想録』で「中禅寺湖は日本でももっとも魅惑的な景観をもつ場所のひとつである」とし、湖では水上スキーが盛んで、外交官や外国人たちは20~25隻の小さなヨットを持って楽しんだことを書き残しています。

■築95周年 特別公開された大使館別荘

ベルギー大使館の別荘は今年で築95周年を迎え、「栃木県誕生150年」と併せて特別公開(6月30日~7月2日)されました。幸いにも「1000名程度」の抽選に当たって訪ねると、1階のホールやサロン、テラスなどが見学でき、湖と男体山の絶景を楽しみました。

サロンに興味深い写真がありました。王子時代のフィリップ国王が、テラスで側近たちと食事を囲んでいる記念写真です。日付は「86・8・30」。1986(昭和61)年8月末、中国訪問の帰りに来日し、9月2日には浩宮時代の天皇陛下と鎌倉の円覚寺を訪ねていますから、その際の一枚でしょう。別荘は現国王も利用していたのです。

特別公開の日。当時のロクサンヌ・ドゥ・ビルデルリング大使が見学者たちを迎えていました。東京に戻って改めて別荘のことを尋ねると、丁寧に返事をくれました。

「別荘について、多くの方に興味を持っていただけたことを大変うれしく思います。ベルギー大使館の別荘は、日本とベルギーとの絆、歴史的なつながりを象徴する大切な建物です。現在も年間を通じて大使を含む外交官や大使館職員が使っていますが、今後も大切に使い続けていきたいと思います」

対岸の「中禅寺湖畔ボートハウス」に、2009(平成21)年に大使館から寄贈されたボートが展示されていました。長さ438センチ、幅126センチ、深さ45センチ。昭和初期に湖畔で造られ、別荘で釣りなどに使われてきた4人乗りの和洋両式のボートです。

船首に書かれた船名に驚きました。「Bassompierre」。バッソンピエール大使の名前です。お披露目のセレモニーでは公使らが乗り込んで湖を遊覧し、「1世紀前の光景が思い浮かぶようだ」と話しています。当時の記事のコメントに、大使も利用したのだろうかと想像が広がります。

別荘の記事を調べていて、2015(平成27)年11月、公使参事官が下野新聞の取材に応じた記事を見つけました。その人の名前は「クリストフ・ドゥ・バッソンピエール」。有島生馬の「大震記念」に描かれたバッソンピエール大使のひ孫です。記事によればベルギーで別荘を持つ大使館は日本だけで、公使参事官は曽祖父が利用した別荘について「周囲の自然や眺めが非常に美しい」と語っていました。

両国が公使館を大使館に格上げしたのは昭和天皇のベルギー訪問後です。ベルギー側の初代がバッソンピエール大使でした。病気の大正天皇に代わって信任状を受け取った皇太子時代の昭和天皇は、ベルギーの滞在と、王室の心のこもった歓迎がいかにうれしかったかを、大使に繰り返し語ったそうです。

バッソンピエール大使の〝姿かたち〟は、東京の復興記念館の絵の中にとどまらず、中禅寺湖畔のボートや、奥日光の歴史の中に生きています。100年前にあった秘話の数々に、ベルギーと日本の関係の〝奥行き〟を思います。

(終)

※注 史料の旧仮名遣いや旧字は今の用法に改め、読点を補いました。

【MEMO】 ベルギー 首都はブリュッセル。関東地方とほぼ同じ広さで、人口1170万人。欧州連合(EU)の本部がある。南部はフランス語、北部はオランダ語が話されるなど多言語の国。1830年にオランダから独立を宣言し、その後、今の王室が始まった。先々代のボードワン国王の葬儀には上皇ご夫妻が、ファビオラ妃の葬儀には上皇后さまが参列し、皇室と王室の交流は親密。1991(平成3)年、男女平等の観点から王位継承を女子にも広げて長子優先とし、現フィリップ国王の次は長女のエリザベート王女が就く。

※文中に明記したほか、以下を参考にしました。
▽『関東大震災絵図 揺れたあの日のそれぞれの情景』(森田祐介ほか、東京美術)、▽『英国公使夫人の見た明治日本』(メアリー・フレイザー著、横山俊夫訳、淡交社)、▽『東の島国 西の島国』(ヒュー・コータッツィ、中央公論社)▽『物語 ベルギーの歴史 ヨーロッパの十字路』(松尾秀哉著、中公新書)、▽『米欧回覧実記(3)』(久米邦武編、岩波文庫)

【筆者プロフィル】井上茂男(いのうえ・しげお) 日本テレビ客員解説員。皇室ジャーナリスト。元読売新聞編集委員。1957年生まれ。読売新聞の宮内庁担当として天皇 皇后両陛下のご成婚や、皇后さまの病気、愛子さまの成長を取材した。著書に『番記者が見た新天皇の素顔』(中公ラクレ)。