【皇室コラム】天皇陛下 沖縄とベルリンでかみしめた平和の貴さ
沖縄戦が終結した慰霊の6月23日が今年も巡ってきました。その日に黙とうを欠かさない天皇陛下が、沖縄を初めて訪問されたのは1987(昭和62)年9月、27歳の時です。偶然にもその旅は、昭和天皇の病気が明らかになった日に始まって手術の当日に終わり、訪問がかなわなかった昭和天皇の無念さに重なる記憶でしょう。1か月半後には当時の西ドイツで冷戦の象徴「ベルリンの壁」も目にされ、その年は、戦争を知らない世代の陛下が世界的な視野で「平和の貴さ」をかみしめた注目すべき年でした。(日本テレビ客員解説員 井上茂男)
【皇室コラム】「その時そこにエピソードが」第18回〈天皇陛下 沖縄とベルリンでかみしめた平和の貴さ〉
■昭和天皇の病気に衝撃が走った日の出発
1987(昭和62)年9月19日の土曜日。昭和天皇のニュースに衝撃が広がる中で、浩宮時代の天皇陛下が初めて沖縄に向かわれる朝を迎えました。
「天皇陛下、腸のご病気」「手術の可能性も」「沖縄ご訪問微妙」――。朝日新聞が朝刊で報じたスクープを、テレビも、ラジオも、新聞も一斉に追い、ニュースは天皇の病状報道一色になりました。
その年は皇室にとって特別な年でした。9月に沖縄県で開催される第42回国体(海邦国体)の「夏季大会」に浩宮時代の天皇陛下が出席し、10月の「秋季大会」には昭和天皇が天皇として初めて沖縄を訪問、11月の「全国身体障害者スポーツ大会」(かりゆし大会)には当時の皇太子ご夫妻(上皇ご夫妻)が訪問される予定だったからです。
沖縄で開催される国体は全国一巡の最後を飾る大会でした。夏季大会は前年から浩宮時代の陛下が出席されるようになり、天皇の初訪問が実現するだけでなく、天皇家3代――親、子、孫が相次いで沖縄入りするはずでした。
戦後、昭和天皇は敗戦で打ちひしがれた人々を励ますために全国を回りましたが、米軍占領下の沖縄だけ残りました。メディアは“戦後巡幸の締めくくり”ととらえ、先駆けとなる陛下の時から大規模な取材態勢を組んでいました。そこに昭和天皇の病気です。同行を予定していた記者の多くは東京に残り、病状の取材に走りました。
■県民の4人に1人が犠牲になった沖縄戦
沖縄は、先の大戦で住民を巻き込んだ凄絶な地上戦が行われ、県民の4人に1人、20万人以上の人が犠牲になりました。本島では3人に1人と言われます。集団自決で亡くなった人も少なくありませんでした。
1972(昭和47)年5月、沖縄は27年間に及ぶ米軍の施政を経て日本に復帰します。記念の植樹祭や特別国体「若夏国体」で昭和天皇の訪問が探られますが、戦争に対する天皇の責任などについてわだかまりが強く、見送られます。
1975(昭和50)年、皇太子ご夫妻(上皇ご夫妻)が沖縄国際海洋博のために初めて訪問し、「ひめゆりの塔」で火炎瓶が投げつけられる事件が起きました。天皇の訪問は「懸案」とされながら、なかなか実現には向かいませんでした。
1985(昭和60)年10月、昭和天皇へのご進講の折に、西銘(にしめ)順治知事が2年後に沖縄県で開催される国体への訪問を要請し、動き出します。
「天皇陛下を迎えて沖縄の戦後を終わりにしたい」
知事は常々そう口にしていましたが、反対の声は根強く、過激派は「天皇訪沖阻止」を掲げて動きを活発化させました。皇居に向けて迫撃弾が撃ち込まれたのは陛下の出発の3週間前です。県警は応援をもらって警察官3000人による厳戒態勢を敷きました。
■慰霊、視察――2時間に及んだ南部戦跡
9月19日午前11時15分。浩宮時代の陛下を乗せた全日空機は那覇空港に着陸し、3泊4日の旅が始まりました。
陛下はまず、近くのホテルで西銘知事から「県勢概要」について話を聞かれました。県の『行啓誌』によると、知事は面積の説明のところで「米軍提供施設面積は254平方キロメートルで、県土面積の11%にあたります」と、数字を挙げて米軍基地に触れています。
この後、陛下は沖縄本島の南端にある糸満市摩文仁(まぶに)の南部戦跡に向かわれました。日本軍が追い込まれ、司令官が自決して組織的な抵抗が終わった地です。車で約45分。公的な訪問であることを示す「親王旗」が車に掲げられました。
南部戦跡での滞在は約2時間に及びました。国立沖縄戦没者墓苑の納骨堂への拝礼、県立平和祈念資料館の視察、平和祈念堂の参観、県立第一高等女学校と県立師範学校女子部の生徒ら224人の慰霊碑「ひめゆりの塔」への拝礼――と続きました。
地元紙の琉球新報や沖縄タイムス、読売、朝日、毎日の各紙の記事を総合して陛下の様子を追ってみます。
平和祈念資料館では、集団自決現場の生々しい写真や、「日本軍による住民虐殺」のパネル、自決に使われた錆びた手榴弾やカミソリ、火炎放射器でボロボロになった母子の着物などを、息をのみながら50分にわたって見学されました。
「戦没者の数さえ、はっきりしないそうですね」
「遺骨収集は今後も続けられるのですね」
陛下の質問はわずかで、説明者の目に陛下は「ずっと緊張しておられた」と映りました。
「ひめゆりの塔」では、生存者の宮良ルリさんから花束を受け取って供え、壕をのぞきながら「あなたが書かれた『私のひめゆり戦記』を読みました。壕の中はどうだったのですか」と質問されました。
「みんな、『お父さん』『お母さん』と叫びながら死んでいきました。『戦争のない時代に生きたかった』と言って息を引き取りました」。宮良さんの話にじっと耳を傾け、うなずかれました。
■「感想」の中で「ぬちどぅたから」に触れた初めての訪問
初日の日程が終わって知事と侍従が記者会見し、侍従から陛下の「感想」が紹介されました。
「24万人の尊い犠牲者とその遺族の方々を思い、深い悲しみの思いにひたされました。沖縄の人々は先の大戦を通じて『ぬちどぅたから』の思いをいよいよ深くしたと聞きましたが、この平和を求める痛烈な叫びが国民すべての願いとなるよう切望しています」
東京から来た記者たちは“命こそ宝”を意味する「ぬちどぅたから」がわからず、知事が助け船を出しました。それは沖縄で「反戦平和」のスローガンとしても使われる馴染みの深い言葉で、多くの人が陛下の思いを受け止めました。
話は35年後の今に飛びますが、陛下は今年5月15日の沖縄復帰50周年式典のお言葉で、「大戦で多くの尊い命が失われた沖縄において、人々は『ぬちどぅたから』(命こそ宝)の思いを深められたと伺っていますが」と述べられました。そのフレーズは初めての訪問の時の「感想」を思い出させます。その言葉をずっと温められていたのです。
■「本当に戦争は悲惨だな」というつぶやき
記者会見では侍従から陛下の様子も明かされました。
平和祈念資料館では心を強く打たれた様子でした。「遺品のひとつひとつを見て当時の苦しい思いが伝わってくる」。帰りの車の中で話されました。
かつての戦場にサトウキビ畑が広がっていました。「平和な風景ですが、まだ遺骨の収集も終わっていないそうです」という侍従の話に、「本当に戦争は悲惨だな」とつぶやかれました。
機内の様子も紹介されました。沖縄の地図を見ていて、本島南部から東に5キロほど離れた久高(くだか)島に「徳仁(とくじん)」という港があることに気づき、「日本でも私の名前=徳仁(なるひと)=と同じ地名はここだけでしょうね」と笑って話されました。
本島北部の海岸線が見えると、「サンゴ礁のきれいな所が多い。信じられないほど美しい」とも話されました。着陸後とは全く異なる空気です。
2日目の記者会見では、車の中から見えた「キャンプ瑞慶覧(ずけらん)」や「嘉手納(かでな)基地」など米軍基地について質問が出ました。
「宮様の立場として直接申し上げにくいが、西銘知事の県勢概要の中で、県内に占める基地の割合などが説明されており、“非常に(基地の)数が多いので驚きました”と浩宮さまが語った」。侍従の話を琉球新報が伝えています。
復帰50周年式典のお言葉で、陛下は「沖縄には、今なお様々な課題が残されています」と述べられました。「課題」には初めての訪問で「多い」と感じた米軍基地が含まれるでしょう。政治的な発言にならないように配慮したギリギリの発言だと思いました。
■訪問の前に文化や歴史を学んだ16時間
陛下の滞在中の琉球新報や沖縄タイムスの1面を見ていくと、昭和天皇の病気と夏季国体での県勢の活躍のニュースで埋まっています。そのような中で若い陛下は丁寧に予定をこなされていきました。
2日目は夏季国体の開会式に臨んでお言葉を述べた後、県立博物館を訪ねて沖縄の文化にも触れ、ヨット競技などを観戦されました。
3日目は沖縄海洋博の跡地に作られた国営沖縄記念公園を視察、本部(もとぶ)半島にある今帰仁(なきじん)城趾を訪ね、宿泊先のホテルのビーチで郷土芸能をご覧になりました。
4日目は地元のビール工場を見学、競泳競技を見て、午後3時過ぎに那覇空港を発たれています。
訪問を終えて「感想」を発表されています。
「旅行を通して戦争の悲惨さを見聞し、再びこのようなことがないようにとの思いを強めました。戦後の厳しい歴史的状況を克服し、今日の沖縄県を築きあげた県民に敬意を表し、温かく出迎えた人々に感謝します」(要旨)
「浩宮さま沖縄の旅」という記事を琉球新報が23日の朝刊に載せています。厳戒態勢の中、沿道で計17万人が迎えたこと、陛下をひと目見ようと競技会場に多くの人が詰めかけたこと、郷土芸能の視察では県民との触れ合いがあったことなどを紹介し、「“プリンス・ヒロ”の笑顔は県民に確かな印象を残した」「“アイドル”を迎える以上の騒ぎ」と記しています。多くの県民に歓迎されたことがうかがえる書きぶりです。
陛下は訪問に当たって沖縄の歴史や文化を勉強されていました。
「沖縄学の研究者であった外間守善(ほかま・しゅぜん)教授から、沖縄の文化や歴史についてお話を伺ったことも、沖縄への理解を深める上でとても良かったと思っています」。陛下は今年2月の記者会見でこう話されました。
外間教授(故人)は、米軍の魚雷を受けて沈没し、約1500人が犠牲になった学童疎開船「対馬丸」で妹を亡くした人で、皇太子時代の上皇さまに琉球の短歌「琉歌」を手ほどきしたことで知られます。
沖縄タイムスによると、陛下は訪問の日程が固まった6月、外間教授から1回2時間、8回の話を聞かれています。計16時間。「お話をうかがった」と陛下は控え目に話されましたが、大学なら“単位”が取れるような時間数です。滞在中も博物館の関係者らをホテルに招いて話を聞かれています。沖縄の文化や歴史を知ろうとする熱さが伝わる逸話です。
■1か月半後には「ベルリンの壁」を視察
この年は注目すべき視察がもう一つありました。当時の西ドイツで視察された「ベルリンの壁」です。沖縄訪問の1か月半後の11月。旧日本大使館を修復した「ベルリン日独センター」の開所式出席のための訪問でした。
旧大使館は1942(昭和17)年に建てられ、先の大戦の空襲で破壊されて野ざらしになっていました。それが日独、日欧の新たな文化交流の場として生まれ変わりました。
毎日新聞や朝日新聞によると、この時、陛下は「ベルリンの壁」を見た印象を聞かれて「ベルリンが東西の接点にあるという国際政治の厳しい現実を見た思いがします」「先ごろの沖縄訪問と合わせ、平和の貴さを改めてかみしめています」と話されました。
2019(平成31)年の記者会見では「その時見た、冷たく聳(そび)えるベルリンの壁は、人々を物理的にも心理的にも隔てる東西の冷戦の象徴として、記憶に深く刻み込まれるものでした」と回想されています。
この年は、皇太子ご夫妻(上皇ご夫妻)の訪米に際し、陛下が初めて国事行為の臨時代行を務められた年でもありました。天皇の重責を担った記憶に、昭和天皇の「思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを」という歌が重なるでしょう。
そうした経験の上に、アジアとヨーロッパで見聞きした戦争の爪痕が一つになり、「平和の貴さ」をかみしめられていたのです。
■次世代への継承~愛子さまに貸された沖縄の本
復帰50周年式典は、両陛下の長女、愛子さまもテレビでご覧になっていました。子どものころから両陛下と一緒に沖縄の「豆記者」たちと交流されてきた愛子さまです。沖縄の歴史に興味を持ち、陛下から歴史の本を借りて読まれたそうです。それは陛下が小学生の頃に豆記者から贈られた本でした。「大人が読んでも勉強になる」と愛子さまに貸されたと聞きました。このエピソードに2016(平成28)年の陛下の発言が思い浮かびました。
「戦争を知らずに、平和の恩恵を生まれたときから享受してきた私たちの世代としては、各種の展示や講演、書物、映像など、過去の経験に少しでも触れる機会を通じて、戦争の悲惨さ、非人道性を常に記憶にとどめ、戦争で亡くなられた方々への慰霊に努めるとともに、戦争の惨禍を再び繰り返すことなく、平和を愛する心を育んでいくことが大切だと思います。そして、そうした努力を次世代にも受け継いでいくことが重要だと思います」
復帰式典から10日後。陛下は皇后雅子さまと東京国立博物館で「琉球」展を鑑賞されました。ご覧になった中に、戦争の傷跡が残る琉球王朝時代の「万国津梁(ばんこくしんりょう)の鐘」がありました。初めての訪問の2日目に、県立博物館で目にされた遺産です。鑑賞は両陛下の希望だったそうです。
■復帰式典で陛下のまぶたに光ったものは…
今年も6月23日が巡ってきました。その日を迎え、2010(平成22)年7月、陛下の5回目の沖縄訪問に同行した時のことを思い出します。陛下が戦没者墓苑で深々と拝礼し、遺族代表の話をじっと聞かれた時のひたむきさです。
皇室の訪問が摩文仁での慰霊から始まることについて、当時の仲井眞知事は「当然のことのように自然体でされる姿は、ストンと胸に落ちる感じです」と話していました。
5月15日の復帰50周年式典。陛下は琉球の伝統模様「ミンサー」のネクタイを結ばれていました。「いつの世までも幸せに」という願いが込められた模様です。
「沖縄にゆかりのものを」。手持ちの中から陛下が選ばれたと聞きました。
お言葉の途中、右のまぶたに光るものが見えました。気づいたのは「ぬちどぅたから」のあたりです。目尻に広がっても拭おうとはされませんでした。感情がたかぶってというのではなく、沖縄に向き合う中でじわりとあふれた印象です。
陛下の35年前の初訪問をたどってみて、戦争を知らない世代ゆえのひたむきさ、沖縄への思いの濃さに気づきます。
【略歴】井上茂男(いのうえ・しげお)日本テレビ客員解説員。皇室ジャーナリスト。元読売新聞編集委員。1957年東京生まれ。
読売新聞社会部の宮内庁担当として天皇皇后両陛下のご成婚や皇后さまの適応障害、愛子さまの成長などを取材。著書に『皇室ダイアリー』(中央公論新社)、『番記者が見た新天皇の素顔』(中公新書ラクレ)