100歳が語り継ぐ記憶 呉海軍工廠で戦艦大和に携わった元少年工 戦後80年の思い【NEVER AGAIN・つなぐヒロシマ】
かつて、軍港のまちとして栄えた広島県呉市に、戦艦大和の建造でも知られている海軍直轄の巨大な工場・海軍工廠がありました。そこに勤め、大和にも乗艦した経験を持つ100歳の男性に、今も鮮明な当時の記憶と、戦後80年を迎えて思うことを取材しました。
中倉勇(なかくら・いさむ)さんは戦時中、「呉海軍工廠」に勤めていました。
■呉海軍工廠の元少年工 中倉勇さん
「大正13年10月15日。ちょうど100歳ですね。」
■呉海軍工廠の元少年工 中倉勇さん
「このドックのね、ここへ入っていました。」
それは、日本中が戦争の高揚感に包まれていた時代でした。
■呉海軍工廠の元少年工 中倉勇さん
「真珠湾攻撃のニュースが出たら、『さあ、やったぞ!』と盛り上がりましたからね。海軍工廠で。」
海軍工廠では、明治時代から太平洋戦争終結までに、133隻の艦艇を建造しました。呉の港は「東洋一の軍港」と呼ばれていました。
呉で生まれた中倉さんは、父親を早くに亡くし、家計を助けたいと高等小学校を卒業後、14歳で呉海軍工廠に入りました。
■呉海軍工廠の元少年工 中倉勇さん
「当時就職した先は、造船設計部だったんですよ。そこで半日間、午前中教習所の学校に行って、午後は職場で仕事を習うという形で。」
所属した造船部では、図面を複写する作業を担当しました。
■呉海軍工廠の元少年工 中倉勇さん
「図面を書くのを、そこで1から教えてもらいましたね。船の構造図とか、いろんなものを鉛筆書きするわけですよ。それを今度はトレーシングペーパーといって、ちょっと薄い紙がありまして。それに墨汁で「からす口」と言ってね、線を引くものがあって。それで完成図面を作っていくのをずっとやりましたね。」
楽しみだったのは、昼食だったといいます。
■呉海軍工廠の元少年工 中倉勇さん
「アルミニウムのね、これぐらいの深い弁当箱があってね。ご飯とおかずが入っていて。量はたっぷりありましたね。割と深い弁当箱でしたから。」