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“原爆孤児”夫婦の店最後の1日。59年間、地域に愛された広島の味に別れ。広島

2024年10月8日 19:02
“原爆孤児”夫婦の店最後の1日。59年間、地域に愛された広島の味に別れ。広島

原爆で親を失った「原爆孤児」の夫婦が営む小さなお好み焼き店が先週、閉店しました。

59年間、鉄板と向き合ってきた夫婦の店、最後の日を取材しました。

捧げられた、たくさんの折り鶴。被爆したヤナギの木が風に揺れています。

広島市南区比治山本町。 79年前のあの日、多くの人たちが橋を渡って比治山の方へ避難しました。

橋の東側に小さなお好み焼き店があります。

お好み焼き「KAJISAN」を営む梶山敏子さん 83歳です。今月で店を閉めることにしました。

■梶山敏子さん
「さみしいと言えばさみしいし、ほっとしたと言えばほっとした。59年してから悔いはないです」
梶山さんは3歳の時に父親を病気で亡くし、4歳で母親を原爆で亡くしました。その後、同じ原爆孤児だった昇さんと結婚しました。

■梶山敏子さん
「好きで結婚したわけじゃないけど勧められて。よかったです。当たりだった」

夫は会社員。家計を支えようとお好み焼き店を始めました。

■お好み焼き
「できあがりました」 愛されてきた地域の味…

しかし、体力の限界を感じ閉店を決めました。

■梶山敏子さん
「お好み焼きを焼くのに火加減が一番大切だと思う。それが火加減するのが無理になった・・・姿勢がね。辞めた方がいいと思いました」

■梶山敏子さん
「出会いが楽しかった。ふれあいとか 出会いとか。8月6日に毎年来てくれる人がいた。原爆の話を聞きたい人には焼きながら話をしたり(原爆孤児の)生い立ちを話していた。ようがんばったねと若い人も お年寄りもほめてくれた」

閉店の日は静かに過ごそうと一部の常連客だけに伝えました。

■梶山敏子さん
「出番ですよ。早く下りてきてください」

同じ原爆孤児だった夫の昇さんです

昇さんは会社勤めをしながら店を支えてきました。

■梶山昇さん
「ようがんばって僕もですが余生を静かに送ろうとただそれだけです。ところが 遅いです足腰が悪くなって」

■梶山敏子さん
「私の方がありがとうございますです」「手伝ってもらってありがとうございます です」「町工場に働きに行って帰ってからは鉄板の掃除をしてもらった」「朝はきょう必要なもやしやキャベツの買い物に行ってもらった」「全部してもらったから私の方がご苦労様でしたありがとうございましたです」

■梶山昇さん
「はい、その通りです」
■常連客
「59年お疲れ様でした」

常連客から寄せられる感謝の言葉や贈り物。

■常連客
「広島の母みたいな。安心する存在でいつ来ても…」

■梶山敏子さん
「約59年8か月になります。長い期間店を支えていただいた皆々様に感謝の気持ちでいっぱいです。長年にわたってお好み焼き「KAJISAN」を愛してくださり本当にありがとうございました。みなさまどうそご自愛くださいませ」

原爆孤児の2人が結婚し、

支え合いながら59年間続けたお好み焼き店。

閉店の日、人生を共に歩んだ鉄板を花が彩りました。

【2024年10月8日 放送】

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