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阪神・淡路大震災から29年 兵庫県西宮市で被災し現在つるぎ町在住の男性のあの日の記憶は【徳島】

2024年1月17日 20:00
阪神・淡路大震災から29年 兵庫県西宮市で被災し現在つるぎ町在住の男性のあの日の記憶は【徳島】
あの日も寒い朝でした。

最大震度7、6434人の尊い命が失われた阪神・淡路大震災から、2024年1月17日で29年です。

当時、兵庫県西宮市にいて被災し、現在は徳島県つるぎ町に在住の男性に、あの日の記憶を聞きました。

そしていま、能登半島地震に際し、思うこととは。

大江実結記者の取材です。


「最初の『ドン』って、何が起こったか分かんない状態でしたね。揺れが収まって、あまりの静けさにシーンとなって。これなんだろうって布団から顔を出して、出したら見えるはずのない空、星が見えて。これは普通じゃないなと思ってよく見たら、屋根が避けてそこから空が見えていた」

徳島県つるぎ町の前田秀和さん・46歳。

29年前、17歳のときにふるさと西宮市で阪神淡路大震災に遭遇しました。

1995年1月17日午前5時46分、淡路島北部を震源とするマグニチュード7.3の地震が発生しました。

神戸市をはじめ、前田さんの住んでいた西宮市などで最大震度7を記録、多くの家屋が倒壊し大規模火災も発生しました。

当時、前田さんは高校2年生、ひとり立ちした姉をのぞく両親と7歳の弟の家族4人で暮らしていました。

そんな前田さんを突然の地震が襲いました。

(西宮市で被災した前田秀和さん(46))
「びっくりして起きて、隣の部屋に弟と両親が一緒に寝てたんで、そこを開けたら弟1人で立ってて、『お兄ちゃん』って感じで抱き着いてきて。『パパとママは?』と聞いたら、もちろん弟も寝てたんで分からないと」

2階の自室を出ると、1階は押しつぶされた状態でした。

姿の見えない両親を、近所の人ががれきをかき分け捜してくれました。

(西宮市で被災した前田秀和さん(46))
「いろいろ掘っていったら、母親が着てたパジャマがちらっと見えて、あれは母親が着てたパジャマですと。多分ここにいるかもしれませんってことで、僕は外に出された。それから近所の人が見つけてくれて、2人とも運び出されて。僕は埋まっている瞬間は見てはないんですけど、後で聞いたら、父親が母親にかばうように、ふたり一緒に発見された」

(大江実結記者)
「ご両親が亡くなられて、ご遺体と対面したのはいつぐらいですか?」

(西宮市で被災した前田秀和さん(46))
「お昼前ごろに、2階のはがした畳に父親と母親が寝かされて、毛布を掛けられて、初めてそこで対面しましたが、姉と弟は泣き崩れていました。僕はその現実を受け入れられず、泣けなかったです。そのとき何を考えてたかというと、残された子どもたちでどうやって生きていけばいいのだろう」

阪神・淡路大震災で亡くなった人は、災害関連死を含め6434人に上ります。

かろうじて助かった人も、家屋の倒壊などにより、避難所を出たあとも仮設住宅での生活を余儀なくされました。

その数は実に、約5万世帯に上ります。

被災から数か月後、前田さんたち姉弟3人は西宮市の仮設住宅で新しい暮らしを始めましたが、炊事や洗濯など慣れない家事に追われ、両親の不在を痛感する毎日でした。

(西宮市で被災した前田秀和さん(46))
「姉と姉弟ゲンカしてました。それはやっぱり色んなストレスが溜まって、ぶつかって、その姉弟ゲンカをしているのを弟が見て、お兄ちゃんとお姉ちゃんが争っているのを見てて、いつも外に出て」

(大江実結記者)
「生活していく中で、お父さん・お母さんが生きていたらなって思うことは」

(西宮市で被災した前田秀和さん(46))
「それは常に、姉弟3人とも常に思っていたと思います。でも誰かが『両親がいたら』って言い出したら、みんながその気持ちなんで、それぞれが自分の気持ちを抑えていました。だから僕はみんなが寝てから、よく布団の中で泣いていました」

周囲の人に支えられながら、姉弟3人力を合わせて生きてきました。

姉・優子さんが結婚し、その後、前田さん自身も2002年に職場で知り合った真央さんと結婚し、翌年には真央さんの故郷である徳島に、家業を継ぐ形で引っ越してきました。

男女2人の子宝にも恵まれ、いまは幸せな日々を送っています。

(西宮市で被災した前田秀和さん(46))
「ちょうど上の子が、男の子が17歳。僕が両親を亡くした17歳になったのを見て、対比させて吹っ切れてはないけど、よく20数年間、なんとか周りのおかげで前を向いて生きてこられたなと。自分の子どもを見て、思うようになりました」

支えてくれた人たちへの感謝を込めて、12年前から中学生に被災体験を語り、防災の大切さを伝える授業を続けてきました。

そんな日々の中、また災害が日本を襲いました、令和6年能登半島地震

(西宮市で被災した前田秀和さん(46))
石川県の地震は、見ててやっぱりすごく心が痛くなりました。(家の)倒れ方も、1階がつぶれて2階だけ残ってたり。(当時の)うちも木造の古い家だったので光景的にもよく似ていると。家族で最低3日は乗り越えられる防災セットを用意するとか、防災セットも1階の玄関ではなくて2階のベランダの近くに置くようにしようかと。家がつぶれても、2階にはほとんど残っているので取り出せるなと。最終的には、個人個人の防災意識を変えていくことかなと」

あれから29年、文字通りがれきの中から立ち上がり生きてきた、前田さんのメッセージは。

(西宮市で被災した前田秀和さん(46))
「両親を亡くしたとはいえ、下を向いてばっかりではなくて、『なんとか生きていこう』と、前向きな気持ちが大切だなと、振り返ってみたら思います。石川県にしても今後いろんな災害が起きるかもしれないですけど、何が起きても前向きに、『生きてるだけで丸儲け』と、よく言いますけど、何が起きても前向きに生きていくことが大切」

(大江実結記者)
「17歳の自分を振り返って、どんな言葉をかけたいですか?」

(西宮市で被災した前田秀和さん(46))
「過去に振り返って自分に言えるなら、『幸せな生活で元気に生きてるよ』って、言いたいですね」


29年という時間は決して短くはありませんが、それでも忘れてはいけない、忘れることなどできない記憶があります。

私たちはこれからもあの日の記憶を、そして被災者の思いを伝え続けます。
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