【「東日本大震災」を小学6年生で経験】ミヤギテレビ記者が取材した『能登半島地震』 石川県で2月5日から5日間取材
「『能登半島地震』から、まもなく1か月半。
『NNN取材団』として現地で取材をした伊藤記者と被災地の現状をお伝えします」
伊藤有里記者
「私は2月5日から5日間、石川県珠洲市や七尾市、輪島市などで取材を行いました」
柳瀬アナ
「地震から1か月が経った中、現地はどう映りましたか?」
伊藤記者
「深く心に刻まれたのは、多くが手つかずのままの倒壊した家屋でした。私たちは、東日本大震災で津波被害を経験していますが、能登では倒壊した家屋が流されずそのまま残っていることで、そこに「生活」があったことをより強く感じました。現地で取材したことをまとめました」
最大震度7を観測した「能登半島地震」。
1か月余りが経過した先週、私たちが入ったのは「奥能登」と呼ばれる地域。
激しい揺れで甚大な被害を受けた街は、発生から1か月経った今も被災した住宅の多くは手つかずのままとなっていた。
伊藤記者リポート(2月6日)
「海のすぐ近くに建物が並んでいたとみられますが、大きく倒壊したり流されてしまっている様子が確認できます。浜辺には、津波で打ち上げられたとみられる船がそのままになっています」
石川県での住宅被害は「6万棟」を超えていて、住めなくなった家の今後や膨大な災害廃棄物をどう処理していくかなど課題が山積している状況だ。
一方、地震前の暮らしを取り戻していこうとする動きも始まっていた。
2月6日、石川県内のすべての公立小中学校で授業が再開した。
子どもたち「(Qみんな給食楽しみですか?)楽しみー!」
こちらの小学校では、断水は続いていたものの、この日給食を再開した。
給水車から出した水を節約しながら手を洗い、ラップで皿が汚れないようにするなどの工夫もしていた。
子どもたち「いただきます!」
避難所生活が続く児童もいる中、久しぶりの給食に笑顔がこぼれた。
小学6年生「めちゃくちゃおいしかったです。おつゆ大好きなので飲めてうれしいです」
小学2年生「普通の生活が戻ってきてとってもうれしいです」
給食を作る施設に大きな損傷がなかったことで、このタイミングでの再開が叶った。
珠洲市立みさき小学校・角みのり校長「給食は、子どもたちにとっても私たちにとっても当たり前だったんです。栄養と共に心にも力をくれていたんだな、と今改めて思っています」
2月7日。地域の医療機関でも通常診療に向けた大きな前進があった。
七尾市の能登総合病院では、「人工透析」の治療を再開した。
「透析」治療には大量の水が不可欠で、断水の影響でおよそ100人いた患者は別の病院に転院させるなどしていた。
透析治療を受ける患者
「片道3時間で往復6時間ほどかかってましたので、七尾の方の病院にかわって本当にうれしく思います」
「懐かしい方たちに(囲まれて)、あぁ古巣にもどってきたな、 という気持ちです」
公立能登総合病院・泉谷省晶人工透析部長
「医療っていうのは、基本的なインフラの一つだと思っているので、そこが復旧しないと中々復興が進まないのかなと思っています。 みなさん大変な中 頑張っていますから」
柳瀬アナ
「学校や病院の再開というのは、日常に戻る大きな一歩ですよね。
伊藤記者は、「東日本大震災」の時は小学6年生。
石巻市雄勝町で被災した中、今回の地震の取材を通してどのようなことを感じましたか?」
伊藤記者
「子どもたちはすごく元気に見えた一方、先生に聞くと『自分の家は無事だけど、友達の家は壊れてしまって申し訳ない』と話していた子もいるそうです。私自身の経験と照らし合わせても、大人に自分の気持ちを話すことは難しかった記憶があり、子どもたちの心に寄り添っていくことも大事だなと感じました。また、被災した多くの人たちが直面している課題についても、取材しました」
金沢市に隣接する内灘町。
伊藤記者リポート(2月5日)
「内灘町では液状化現象の影響で建物が傾いてしまっていたり、車庫に車が押しつぶされてしまっています」
この町を襲った“液状化現象”。
街並みがまるで波打つように大きく起伏してしまっている。
最大震度5弱を観測した内灘町では、1400軒以上の家屋に被害が出た。
被害が酷かった地域を歩くと、いたるところに倒壊の危険を示す張り紙がある。
取材中に出会った宮本浩嗣さん(81)。
父から受け継ぎ58年住んだ自宅は、液状化の影響で大きく傾いてしまった。
宮本浩嗣さん(81)
「今にも崩れそうや。この面とこちらの外の面と同じだったんです。これだけズレてったんですわ」
自宅の中に入ると、床が傾き平衡感覚を保つことができない。
撮影したカメラマン
「斜めですね、完全に。身体おかしくなるから気をつけて」
宮本さんは、現在金沢市の長男の自宅で避難生活を送っていて、日中は車庫で暖を取りながら妻の由紀子さんと家の片づけを行っているという。
宮本さん
「(住み続けるのは)たぶんちょっと難しくなってくんじゃないかな。 (回りで)新しく家を建てる方、あんまおらんと思うな」
宮本さんは、町内の被害の少ない地域にアパートを借り、自宅は解体するという。
宮本さん
「思い出がいっぱい詰まった家なんで。ほんと残念やなと思っております。こんな状態で壊さんといかんのかなと思うと、ほんと残念です」
2月7日、内灘町の避難所。ここで生活する男性2人に話を聞いた。
中居俊邦さん(67)「これがうち」
内灘町で被害が大きかった3地区では、4割近い建物が応急危険度判定で「危険」と判定。
現在も、上下水道が広い範囲で使えず、多くの住民が避難所生活を余儀なくされている。
坪内勇さん
「(Q住んでいた地域はどうなるんですか?元に戻らない。自分の家は諦めつけとる。 直っても住みたいと思わんし。 だからここで避難しとるやろ。 仮設(住宅)ができたら仮設住むっていうことを考えとる」
中居さん
「今考えてるけどどうなるかわからない。 住めるかもしれんけど、どうなるかやな」
避難生活が長期化する中、これからの生活をどうするのか、選択を迫られている。
伊藤記者
「石川県では現在仮設住宅の建設が進められていますが、まだまだ必要な戸数の建設には至っていません。内灘町だけでなく、奥能登も同じような状況です。
『東日本大震災』では住宅再建が遅れたことで、(私の)地元の雄勝町では人口の70%以上が町を離れてしまいました。これからの復旧・復興に向けて『東日本大震災』の経験が石川県に生かせることもあると思います」
柳瀬アナ
「『東日本大震災』の事例を見ても、移転に関する住民の合意が難航し、時間がかかるなど上手くいかなかった事はたくさんあります」
伊藤記者
「(東日本大震災で)上手くいかなかったことも含め、震災で得た様々な知見を共有していくことが必要なのではないかと感じました」