戦争の記憶を後世に…山形県遺族会〝孫〟世代の取り組み
まもなく終戦から79年です。戦争を経験した人たちが減少する中、戦後に生まれた「孫」の世代にあたる山形県遺族会のメンバーが
後世に戦争の記憶を伝えようと取り組んでいます。その活動とメンバーの思いを取材しました。
山形市の県護国神社。6月29日、山形市遺族連合会の慰霊祭が行われました。
およそ40人が参加し、太平洋戦争で犠牲になった山形市出身の戦没者およそ4700人を追悼しました。
この日、戦争の記憶を伝えようという研修会が開かれました。会では、山形市の阿部清二さん(92)が戦時中の経験を語りました。
当時、小学生だった阿部さんは、軍に召集された大人に代わって農作業を手伝っていましたが、
手伝い先でおにぎりをもらったことで学校の先生に怒られたといいます。
阿部清二さん
「『お前らは国賊だ』と言われた。勤労奉仕は、農家に手伝いに行くのだから食べ物などは絶対に供給を受けてはならないと
(言われた)」
研修会を企画したのは戦没者の「孫」や「ひ孫」たちで組織された山形市遺族連合会の青年部です。
山形市遺族連合会青年部・山岸正昭 部長
「戦争があったというのは、夢物語ではない。何があったかを知ることが、戦争を知らない世代には非常に大事だと思っている。
平和な社会を築くためにはみんなでそれをどうやったら維持できるか考えて行動することが大事だと思っている」
部長の山岸正昭さん(64)は、ことし1月から2月にかけて参加した戦没者の遺骨収集について報告しました。
場所は、東京の南の海上にある硫黄島。戦時中、本土防衛の最前線となり、およそ2万1900人の日本人が犠牲になりました。
祖父が戦死したフィリピンに近い場所として硫黄島での遺骨収集を志願した山岸さん。
土を慎重に掘り進め、長い間、地中に眠っている遺骨を探しました。
山形市遺族連合会青年部・山岸正昭 部長
「谷を掘った土を山に盛り上げている。この中にもご遺骨が混じっている。ふるいにかけながら山を崩していく。果てしない。穏やかな春の日なんです。でも目の前の地中には、戦争がそのまま残っている」
10日間で、27人分の遺骨を収容しました。
一方で、硫黄島では現在も犠牲者の半分以上となるおよそ1万1000人の遺骨が残されているといいます。
山形市遺族連合会青年部・山岸正昭 部長
「発掘されたご遺骨が『お父さんかもしれない』という遺児の方がいらっしゃるうちに遺骨収集を強力に進めるべきだと
感じております」
研修会に参加していた市遺族連合会女性部の阿部博子さん(81)は、戦争で父を亡くしました。
阿部博子さん
「(戦没者が)大変な思いをして亡くなったんだなと。私の父もそういうふうにして亡くなったと思うと、胸にじんと染みわたります」
山形県遺族会によりますと、県内で戦没者の子どもの平均年齢は82歳ほどになり、山形県遺族会の会員数も
10年前の半数ほどのおよそ7200人に減少しました。
遺族の高齢化が進む中、戦没者の「孫」や「ひ孫」を中心に7年前(2017年)に設立された県遺族会の青年部は
現在、およそ300人のメンバーが活動しています。
ことしで戦後79年。
戦争を経験した人が数少なくなっている状況に危機感を抱き、戦争の悲惨な記憶を伝える研修会などを開催しています。
阿部さんは戦没者の妻や子どもたちの手記をまとめた文集の発行に長年、関わってきました。
(文集「語り続けて」より)
「表し様もない光景。床の上に押し込まれ、人体の塊、この世のあらゆる悲しみとあらゆる圧迫と醜悪なものを見たのです」
文集の発行は去年で終了しましたが、今後は、山岸さんら青年部の活動に期待を寄せています。
阿部博子さん
「青年部の方が平和の語り部で私たちの思いを引き継いで皆さまに啓蒙活動をしていっていただけたら」
戦争の記憶と平和の尊さを未来につなげたいー。
山形県遺族会青年部は今後、戦争経験者の話を動画で記録し、小学生など若い世代に見てもらう取り組みを行っていく方針です。