パラカヌー・瀬立モニカ 原動力は母の言葉
24日に開幕する東京パラリンピックで金メダルを目指すパラカヌー日本代表の瀬立モニカ選手。パラカヌーを始めて2年でリオパラリンピック8位入賞を果たした瀬立選手の原動力は、母・キヌ子さんの言葉でした。
瀬立選手は、1997年東京都江東区で生まれ、幼い頃から体を動かすことが大好きな元気いっぱいの女の子。カヌーと出会ったのは、中学2年生の時でした。
「初めてカヌーと出会ったのは健常者の頃で、私はもともと水泳をやっていて体育の先生から『カヌー部の部員を募集してるんだけどモニカどうか?』水泳の水とカヌーの水の共通点、今考えれば本当に安直な考え方だと思うんですけど、ちょっと楽しそうかなと思って友達と一緒に始めました」
状況が一変したのは高校1年の時。体育の授業で倒立前転を失敗して脊髄(せきずい)を損傷。胸から下が動かなくなり車いす生活となりました。
瀬立選手は当時を振り返ると、「東京国体の1か月前くらいにケガをしてしまってカヌーはもちろんできるわけがない。国体で一緒にやっていた人たちが活躍してる新聞とかも『見せないで』みたいな。そういったカヌーに対する拒絶というのはあったかもしれないです」と言います。
そんな瀬立選手を励ましたのは、看護師をしながら一人で育ててくれた母・キヌ子さん。
「入院中に母から言われた言葉で『笑顔は副作用のない薬』という言葉をかけてもらって、『どんな薬を使ってでも治すことはできないけど、笑顔でいれば周りの人も幸せになるし、周りの人たちが幸せだったら、それがまた自分に返ってくる』というようなことを言われて。入院してた当時は『何言ってんの?そんなの無理だよ』みたいに思っていたんですけど、実際に退院して社会に出てみた時にその大切さに気づいて良い言葉だったんだなと思いました」
母・キヌ子さんは、「(瀬立選手が)家で塞ぎ込むことが多くて、あえてニコニコすることで自分も反対に笑顔に癒やされて笑顔がまた返ってくるよって、『笑顔は副作用のない薬』だって言ってました」と、当時の心境を教えてくれました。
母の言葉で前を向くことができた瀬立選手は、ケガから1年後パラカヌーを始めます。
「車いすになって目線がちょっと低くなったというのが自分としてはすごいショックなことだったんですけど、カヌーは全く目線が変わらなかったんですね。健常者と変わらないレベルでカヌーが楽しめるってうれしいことだなと思って感動したのは今でも覚えてます」
パラカヌーがどんな競技か尋ねると、「めちゃくちゃシンプルな競技で直線200mをよーいドンして、誰が一番早く200mのゴールラインを船の先端が通過できるか。すごくわかりやすい競技です」と教えてくれました。
金メダルを目指す東京パラリンピック。瀬立選手は沖縄県の大宜味村を練習場所に選びました。
「東京(パラリンピック)の本番の会場が海水なんですね。海水と淡水だと浮力が全然違って水をキャッチする感覚とか船の浮きとかも全部変わってきちゃうんですね」
カヌーは海で行う海水の会場と湖で行う淡水の会場があり、東京パラリンピックの会場は海。水質が似ていることから沖縄県の大宜味村を選んだと言います。
練習場所での思い出を尋ねると「練習場所の徒歩10秒くらいのところに貸家みたいなのがあって、そこは階段がずっとあって『ちょっと車いすじゃ厳しいな』という話をしていたら、なんとお手製のスロープを木で手すりまでついてるようなのを作ってくださって」
持ち前の笑顔と明るさであっという間に村の人たちと仲良くなった瀬立選手。
「私が村に行って一つ良かったことがあってスマホの普及率が上がったんですよね。もう文明の開化というか(笑)今もうスマホでみんなLINE登録して。おじい・おばあたちが延期になったと決まった時も『また来年この村に来られるからいいじゃん』というふうに。すごく前向きに“なんくるないさー”じゃないですけど、そういった気持ちで応援されて、『モニカ、くがに色(金色)のメダルを取ってこい』っていうふうに言われて送り出されているので、村の人たちのためにも頑張りたいという思い強いです」
瀬立モニカ選手は東京パラリンピック・カヌー競技「カヤック」で、障害の最も重い「KL1」クラスに出場。9月2日予選、4日に準決勝と決勝が行われる予定です。
写真:SportsPressJP/アフロ