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若手が大活躍の相撲界!破門を経験した異端の横綱『前田山英五郎』が生きていたら...”愛弟子”高見山に託された「相撲を残してくれ」の真意

2024年6月1日 9:00
若手が大活躍の相撲界!破門を経験した異端の横綱『前田山英五郎』が生きていたら...”愛弟子”高見山に託された「相撲を残してくれ」の真意
愛媛唯一の横綱・前田山英五郎

夏場所は若手のホープ、大の里が初優勝。初土俵から7場所の最速記録だった。今の相撲界は元気がいい。主役は尊富士、王鵬、湘南乃海...第七世代と呼ばれるニューフェイスだ。若手力士の活躍は、相撲に関心の薄かった若い世代をファン層に取り込んでいる。

相撲が盛ん...とはお世辞にもいえない愛媛でも、29年振りに新十両・風賢央が生まれ、ちょっとした相撲ブームが起きている。

愛媛には実は、過去に”異端”の大横綱を産んだ歴史がある。前田山英五郎。今では地元でも知る人が少なくなったが、伝統を重んじる相撲界で、「破門」を経験しながらも横綱に上り詰めた。異端の横綱は初めての外国人関取を育て、様式トイレを相撲界に持ち込んだ。

今年、生誕110年を迎えた前田山が生きていたら、今の若手の活躍ぶりや相撲界にどんな思いを抱くだろうか?愛弟子の元高見山、ジェシー(本名)に聞いた。

【オピニオン室 江刺伯洋】

破門され、クビになった横綱が成し遂げた国際化

愛媛が生んだ唯一の横綱は戦後初の横綱でもある。前田山英五郎。1914年、愛媛県八幡浜市保内町生まれ、本名は萩森金松。1928年、高砂部屋が高知市に巡業に訪れた際、親方が体格の良い少年、金松を見つけ声をかけたという。

翌年の1月場所で初土俵を踏むが、金松少年の人生は波乱万丈、”角界の異端児”と呼ぶにふさわしい人生となる。

まず素行が悪かったらしく親方から何度も「破門」を言い渡された。その度に地元の後援者らが部屋に帰れるよう奔走したという。さらにケガがもとで右腕の切断を検討せざるを得ない窮地に追い込まれたが、奇跡的に土俵に復帰。その後、得意の張り手で1947年、33歳で第39代横綱となった。まさに粘り腰の力士人生だった。

横綱になった期間はわずか6場所、成績も24勝27敗。「最弱の横綱」という人もいる。引退の理由が前代未聞だ。休場届を出して病院へ向かうと思いきや、なんとプロ野球観戦に興じている写真を新聞に取り上げられ引退勧告を受けたのだ。「クビになった横綱」。伝統を重んじる角界にあって不名誉極まりない引退だった。

ところが、前田山の相撲人生はここからだった。

高砂親方になってから外国人関取第1号となる高見山を育てた。当時、海外巡業は前例がなかったが、戦後間もない1951年、アメリカ巡業を実現させた。日本は敗戦国だ。アメリカに敗戦国、日本のスポーツ、文化を紹介し、広めようというのだから恐れ入る。大胆さ、反骨心の塊、まさに異端の横綱の面目躍如だ。1964年、東京オリンピックの年に高見山大五郎を入門させている。「クビになった横綱」は相撲界の『国際部長』となった。

力道山やアントニオ猪木らとも交流があり、趣味のビリヤードや社交ダンスはプロ級だった。相撲部屋に初めて洋式トイレやベッドなどを導入したのも彼だ。洋式トイレはケガにいいからだという。伝統だけに囚われない、合理的な思考の持ち主だったことが分かる。

”愛弟子”元高見山が語る前田山英五郎

前田山英五郎が亡くなって今年で110年。今では地元、愛媛でも知る人は少なくなったが、柔軟な思考で伝統に挑戦し、国籍に関係なく若手の実力を見抜き、育て、相撲界の国際化に貢献した実績を再評価すべきではないか。

横綱という重責にありながら、暴れん坊でアウトローであり続けた前田山英五郎の生き様に、どこか惹かれてしまうのは私だけだろうか。異端の横綱の素顔を愛弟子だった元高見山、ジェシーさん(本名)に聞いた。彼が生きていたら、今の相撲界にどんな思いを抱いただろうか?

Q.師匠の前田山はどんな人でした?

まあ、一言で言うと怖かった。やさしいところありますけど。お酒を飲んだ時に歌うんですよ。「アヴェ・マリア」を歌うのが一番大好きでした。けど、厳しい時はホント厳しい。ゲンコツがカーンになるわね。若い力士は朝、早く起きる。3時半に起きて4時から稽古場で四股。終わるのは正午。ちゃんこは正午過ぎから。

(日本の相撲巡業が)ハワイに初めて来たのは1962年。日系の方の多い所。ハワイ、ロサンゼルス、サンフランシスコの3か所訪問しました。私はまだ高校生だった。1回目のハワイ巡業は行けなかったけど2回目、1965年2月のハワイ巡業に行きました。

Q.その時に初めて高砂親方、前田山に会った?

そうです。初めて会った。親方は団長で協会の代表でもありスカウトされた。ハワイは相撲人気があるんですよ。日系の方が多いから。

Q.高砂親方(前田山)に最初に会った印象は?

ニコニコ笑って怖くなかったですよ(笑)。いつもいい顔してる。私はまだ19歳で。「ジェシー(本名)に是非、来て欲しい」と言われて日本に来ました。

最初に羽田空港の飛行機から降りたら寒くて丁度、雪降ってました。雪を見たのは初めてでした。ハワイ、雪あるけど山の上だけ。ハワイに帰りたいより、とにかく日本を見たいと思ってた。

Q.当時はちゃんこ鍋が苦手だった?

そうです。マグロは赤い所だけ食べた。白いところは苦手で食べないです。野菜、豚肉いくら食べても平気ですけど、白い魚食べるのはダメですね。

Q.そんなときに高砂部屋のおかみさん(好美夫人)が助けてくれた?

そうです。ハム、ソーセージからいろいろ作ってくれた。慣れるまでに2カ月くらいかかりました。

Q.日本に来て辛いこと多かった?

多かったよ。言葉、冬と夏と。暑い時と寒い時が全然違うし。あとは昔はちょっと悪い事したらパーンッ!げんこつが大変ですよ。

Q.高砂親方はどんなふうに接してくれた?

とにかく親方が教えてくれるのは辛抱と努力。相撲の番付は早く上がらないよ。やっぱり辛抱しないと。親方と僕の場合は良く稽古しましたね、辛抱して。

Q.外国籍力士の道を本格的に作ってくれたことに対しては?

嬉しいですよ。辛くて大変なことですけど。言葉もわからなかったし。けど、がんばらないのはダメでしょと言われました。1年目は辛かった。少しずつ2年目、3年目はどんどん自信が出てくるんですよ。

Q.昭和47年初優勝した時は高砂親方は亡くなっていた

丁度、亡くなって1年あとに優勝したんですよ。東京にある親方のお墓に「おかげさまで初優勝しました」と報告しました。

Q.高砂親方に感謝しますか?

もちろん感謝。45年相撲界にいられたのは親方のおかげ。亡くなる前に親方に呼んでもらって、「相撲を残してくれ」といわれたのが一番嬉しかったですよ。最初、相撲ダメになって、ケガしてハワイに帰るとなったら何しようかなと思って。一生懸命に相撲とって親方になって指導するようにと言われました。

Q.高砂親方に今、言いたいことは?

ありがとう。45年の相撲界、彼のおかげで居れました。本当に感謝しています。

「相撲を残してくれ」の真意は?

元高見山、ジェシーさんのインタビューで出てきた前田山英五郎の言葉「相撲を残してくれ」の真意は、私には色々な受け止め方が出来た。”高見山に高砂部屋を受け継いで欲しい”あるいは”相撲という日本の伝統を絶やさないで欲しい”...。

前田山の生まれ故郷、愛媛県保内町(現在、八幡浜市)は3方を山に囲まれ、唯一、開けた海を通じた海運で栄えた。外の世界との接点は海だった。現在、人口1万人ほどだが、愛媛県で最も早く電灯が灯り、愛媛県で最初の銀行が設立され、四国で初めての紡績会社の工場跡が残っている。前田山の向こう見ずだが新しもの好きという性格は、こうした故郷の歴史の中で育った。

相撲界の『国際部長』が今の若手の金星、番狂わせで盛り上がる相撲界を見れば、大いに喜び、楽しむに違いない。高見山に託した「相撲を残してくれ」という思いは生誕110年の今年、多くの後輩たちを通して受け継がれている。相撲は残った。

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