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【特集】過労死した役場職員 山古志の復興のため奔走…震災の教訓と遺族の歩み 中越地震から20年《新潟》

2024年12月8日 16:03
【特集】過労死した役場職員 山古志の復興のため奔走…震災の教訓と遺族の歩み 中越地震から20年《新潟》

20年前の中越地震で68人に上った犠牲者。そのうちの1人が旧山古志村の復興に奔走した役場の男性職員でした。過労死と認定された男性の遺族は住まいのあった山古志に通い続けています。亡くなった息子にいま伝えたい思いがありました。

毎朝通う山古志の自宅

毎朝8時、決まって出かける場所があります。

それが、20年前に住んでいた旧山古志村の自宅。

〈星野祐治さん〉
「山古志の方が滝谷いるより来ると落ち着く」

現在は妻の信子さんとともに長岡市滝谷町に住む星野祐治さん。

中越地震をきっかけに住み慣れた山古志を離れました。

〈祐治さんの妻・信子さん〉
「毎日来るんだよ、コイがいるから。私は畑の見回り。この頃、手が回らない、だんだんできなくなって」

山古志の自宅にある池で鯉を預かり、毎日エサやりをかねて訪れています。

夫婦には息子がいた

そんな二人には、コイが大好きだった息子がいました。

〈星野祐治さん〉
「地震の前にいい人を連れてくるって言っていたんだよね。赤ちゃんおぶってエサくれるのが夢だった」

長男の恵治さん、旧・山古志村の職員として水道事業に当たっていました。

山古志村で水道の供給が始まったのは2004年6月。

これでみんなの暮らしが楽になる……完成したときは大いに喜んでいたといいます。

中越地震が発生

しかし、その4か月後、中越地震が発生、旧山古志村は震度6強を観測。

完成したばかりの水道は被災しライフラインがストップしました。

住民全員が村を離れる全村避難を余儀なくされた山古志村。

仮役場は長岡市の市役所近くに設けられました。

避難所で先の見せない生活を送る住民。

毎日のように水道の被害を調査

こうした切実な声は恵治さんの耳にも届いていました。

避難先の長岡市から毎日のように山古志へ通い水道の被害を調査。

避難所に戻れば運営のサポートに回っていたといいます。

2か月ほど続いた働きづめの日々。

車で単独事故を起こす

恵治さんは、山古志からの帰り1人で運転する車で単独事故を起こしました。

両親は事故の一報を聞き、すぐに病院にかけつけました。

〈祐治さんの妻・信子さん〉
「私らが休んでいる脇で痛い痛いというのが聞こえた。自分で痛くてどうしようもないのが聞こえるのが、我慢ならなくて。その日の夜、朝方だか亡くなったんだよね。切なかったよな」

水道の写真が数多く残される

32歳で帰らぬ人となった恵治さん。

過労死と認定されました。

車の中には、恵治さんが調べた被災した水道の写真や資料が数多く残されていました。

母の信子さんは、事故を起こす前日、異変を感じていました。

「助けられたかもしれない…」

〈祐治さんの妻・信子さん〉
「車もゆらゆらゆらゆらという感じで普通の運転の仕方じゃなかった。でも、恵治しっかりしているからそういうことないよねって自分勝手に考えてしまって。私が助けられたかもしれんのに……とそれが残っている」

もう一度自分たちが行うことになった田植え

地震から1年半後、星野さん夫婦の姿は山古志にありました。

被災してから初めての田植えです。

息子が跡を継いでくれた田んぼ。

もう一度自分たちが行うとは思ってもいませんでした。

「幸せすぎたんだ」

〈星野祐治さん〉
「幸せすぎたんだ、うちは。地震がなければないでさ、平凡にやっていけば、山古志でここに住んでいれば、十分にやっていけた」

「うつっぽくなる人も」

当時、村の企画課長を務めていた青木勝さんです。

職員たちが業務を終えた後、戻るのは住民が暮らす避難所。

昼夜を問わず「役場職員」としての役割が求められる状況だったといいます。

〈旧山古志村 企画課長 青木勝さん〉
「自分たちが帰るところは被災者と一緒に避難所に帰らなきゃいけないじゃないですか。そうすると住民たちは行政を頼りにするから、行政というのは勤務時間外は行政じゃないという、認識上はそうなったとしても住民の生活の中ではそうじゃないわけですよ。そういう面では、うつっぽくなる人も相当数でした」

住民も、職員も……誰もが経験したことのない全村避難。

1人で全部回っていた

〈星野祐治さん〉
「市の職員だって、ああいう状態になったら何人いたって間に合わない。恵治なんか雪降る中(余震で)山が動いている中、一人で水道関係全部まわっていた。だから過労になるのも当たり前」

能登半島地震で新潟市の場合は

中越地震から20年。
ことし1月には能登半島地震が発生しました。

県内でも被害が大きかった新潟市では、過労死ラインを超える「月100時間以上」の時間外労働をした職員の数は前年度の約3倍、
238人にのぼりました(病院医療職を除く)。

また、新潟市によりますと2800人の応援職員を受け入れましたが、とくに建築や下水道などの部門で人手不足が見られたといいます。

能登半島地震で行政職員の支援に当たった筑波大学の松井豊名誉教授です。

業務量は多いが「大丈夫です」

〈筑波大学 松井豊 名誉教授〉
「業務量はすごく多いんだけど、大丈夫ですって頑張っている方が多かった。自分自身のことができないままずっと仕事をし続けているという状態」

全国の自治体から応援の職員が派遣されましたが、業務体制の違いや宿泊施設の確保など課題が重なり、負担の軽減につながらないケースもあったといいます。

そのうえで、自治体は応援の職員を受け入れる想定で訓練を行い、職員の負担を減らす仕組みを講じる必要があると指摘します。

孫が成長

中越地震で息子を亡くした星野さん夫婦。

地震からちょうど20年後となる10月、コイの池上げを行っていました。

この日は、二人だけではなく、にぎやかな様子。

「やばいやばい逃げちゃった。じいちゃんコイが逃げちゃった」

まだ慣れない手つきで祐治さんを手伝うのは、孫の咲穂さんです。

Q)お孫さんも一緒に手伝ってくれてうれしいですね

〈祐治さんの妻・信子さん〉
「ね~、最高らて。鯉は特に好きみたい」

恵治さんの姉の子で、地震当時は3才でしたが今では23歳。

山古志が大好きな自慢の孫に成長しました。

〈祐治さんの妻・信子さん〉
「咲穂は角突きの牛が大好きんがよ」

〈星野さん夫婦の孫・咲穂さん〉
「そうなんです、でもことし行けなくって。いろいろありまして」

〈祐治さんの妻・信子さん〉
「ねえ、いろいろあったね。人生はそうらよ、いい時もいっぱいあるし」

「支えてもらってここまで来た」

恵治さんが好きだった山古志を取り戻したい。

その思いで守り続けてきた田んぼやニシキゴイの池。

池にうつっていたのは、亡き息子を心配させないために20年間歩み続けた二人の姿でした。

〈星野祐治さん〉
「20年かね」

〈祐治さんの妻・信子さん〉
「苦しかったね」

〈星野祐治さん〉
「まあなんとかやってこられただけ、いいんじゃないですか」

〈祐治さんの妻・信子さん〉
「周りの皆さんから支えてもらってここまでこられたと思います。負けてらんないもんね」

20年たった今の山古志の姿を空から見守る息子に届けます。

「恵治、ことしも立派な鯉があがったよ」


2024年11月6日「夕方ワイド新潟一番」放送より

最終更新日:2024年12月8日 16:03