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【能登半島地震】被災者の1か月「もう焼却すると決めた」40年住んだ家と思い出を手放す…覚悟を決めた夫婦 《新潟》

2024年2月3日 16:00
【能登半島地震】被災者の1か月「もう焼却すると決めた」40年住んだ家と思い出を手放す…覚悟を決めた夫婦 《新潟》

元日に起きた地震で人生が一変した人が多くいます。
新潟市西区に住む夫婦は40年住んだ家を手放すことに決めました。家族で過ごした我が家…孫との思い出の品も…突然失ってしまった日常に何度も訪れる決断のとき…覚悟を決めた1か月を追いました。

■地震の翌日 水道管損傷…給水所で出会った一人の女性

1月2日、地震翌日の新潟市西区役所。多くの人が朝早くから水を求めて訪れていました。

給水所に訪れた人
「最初は少し出たんですけどだんだん出なくなって…まずはトイレとか食器とかも洗えてないので余裕があればそういうのにも使いたい。」
「地震後30分くらいしたら水でなくなっちゃいました。トイレとか困りました」

元日に発生した地震により水道管が損傷。水の大切さを思い知らされる正月となりました。

この日、給水所に訪れた一人の女性。新潟市西区寺尾地区に住む、多田セツ子さん(77)です。

多田セツ子さん
「顔も洗えない。こんなになると思わないもんね。だから何も用意してない」

水道だけではなくガスも止まった自宅を取材させていただきました。
玄関の前には大きな水たまりが…

Q)この水たまりは前から?
多田セツ子さん
「この地震でこんなになったの、穴が開いてしまって…」

階段も崩れ、手すりを使って気を付けながら上ります。
ライフラインだけではなく住宅にも大きな被害が出ていました。

台所を見せてもらうと残されたままの正月料理「のっぺ」が…。

Q)料理も用意してたんですか?

多田セツ子さん
「してたんですよー、真面目に」

地震発生前は帰省した息子や孫たちと5人で鍋を囲み家族団らんの時間を楽しんでいたといいます。息子家族が帰り、片付けを始めようと思った矢先に地震が襲い、それ以来、手を付けられないでいました。

近くの中学校に避難していたセツ子さん。給水所で受け取った水で皿洗いです。

多田セツ子さん
「全部洗うと気持ちいいと思うよ、台所が。見るのも嫌だったもんね、こんないっぱいになってると」

夫の与司郎さん(80)は、自宅が心配で避難所ではなく家に残っていました。止まった水道やガスを何とか復旧させようとしていました。

多田与司郎さん
「電話かけっぱなし。話し中になってんさ、話し中なってるからこっち言いたいことなんも言えねえんだ、通じねんだもん」

ライフラインが復旧して建物も少し修理すれば…元の生活に戻れると、この時は思っていました。

しかし…。

■地震から9日 地震再び…「危険」と判定された多田さんの家は

再び襲った地震。1月9日、多田さんが住む新潟市西区でも震度4を観測しました。

後日、多田さんの家を訪ねてみるとそこには応急危険度判定で「危険」とされた赤紙が。その横には「移住しました」と記されていました。

多田さんたちはもうそこにはいませんでした。

■地震から16日 40年住んだ家を離れると決意 思い出も選別

多田セツ子さん
「片付かねんだてば、てんやわんやしてます、どうぞ。」

アパートに引っ越していた多田さん夫婦。被害の小さかった西区の別の地区で急いで探したといいます。

多田セツ子さん
「しょうがないもん、ほんっとにしょうがないもん、宿がなきゃどうしようもないでしょう?あんな傾いたところで…。」

多田与司郎さん
「まだ動いてんだ後ろが。後ろの土が落ちているもんだから、ダメなんだなおらんねんだ。9日の地震の時は、死ぬなと思ったな。」

「危険」と判定された多田さんの住宅。特に外側の損傷が激しく、建物の基礎は大きく崩れ、後ろから押された影響で、平らだったはずの庭はもりあがっていました。

9日に発生した地震をきっかけに、被災した家で住み続けることに恐怖を感じた多田さん。40年住んだ家を手放すことを決めました。引っ越し費用に、家具などの撤去費用さらに家の解体費用にアパートの家賃など、一部は補助があったとしても年金暮らしの二人には重い負担です。

多田セツ子さん
「痛いよね、(家賃)5万でも職がないからさ。再建不能。私らここでもう終わりだね。向こう帰ることなんてできないもん」

多田与司郎さん
「どうしたって2000万~3000万かかるわね、うち建てると。そんな金ないもん。あってもばかばかしくてやってらんない。なんでこんなとこ買ったのかなと思った」

この日昔の家へ寄った与司郎さん。

多田与司郎さん
「あの頃銭なかったんだ、田中角栄の日本列島改造論のころでさ。あそこへ駅をつくります、ここへ新幹線通すなんて言って、土地の価格がぐわーっと上がった。その時に買ったんだから、銭がないから安いの探して買ってた。だから子どもや女房には悪いことしたななんて思って。壊れるべきで壊れたのかもしれない」

それでも40年間、妻とともに子どもを育て思い出を育んできた我が家…。地震さえ起きなければこのまま住み続けるはずでした。

生活に必要なものはすべてアパートに持って行きました。残されていたのは、スケッチブック。

Q)これ、見ました?
多田与司郎さん
「そういうのは捨てることにした。見ると嫌になる、見ない」

6才の孫が家に来るたびに絵をプレゼントしてくれたというスケッチブック。6部屋あった家から2部屋のアパートになり、生活必需品以外は持って行くことが出来ません。

多田与司郎さん
「もうこれ以上うちには入らないし、全部焼却するという気持ちになってしまったんで。女房はたまに郵便受け見に来てくれると、なんか持ってくるんだよね。そうするとますます向こうのうちが窮屈になってさ。“やめてくれ”って“郵便受けだけ見てきてくれ”って言うんだけど、自転車だから多少積めるんだよね。それをやるもんだからさ、まいる…」

思い出の品さえも、持って行けるもの、持って行けないもの…選択せざるを得ませんでした。

■地震から26日 「今まで生きてきたんだから、なんとかなる」温かい気遣いも…

地震からまもなく1か月がたとうとしていました。多田さんのアパートにはもう段ボールはなく、きれいに片付けられていました。

多田与司郎さん
「嫌な地震だった、良い地震ないけどさ。普通の生活っていいもんだなと思っています、いま」

心が温まる時もありました。

多田セツ子さん
「毎日ごはんつくってくれる人がいた。それが一番ありがたい。ここへ移っても“どう?ゴミ出せる?”って電話がくるから、本当にありがたい。やっぱり他人様が困ってるときには、助けてやらなきゃだなとつくづくこの地震で思っています。」

周りの人の何気ない気遣いがうれしかったといいます。

多田与司郎さん
「前向いていかなくちゃね。来たばっかりなのに後ろ向いてたんじゃだめ、前向いて突っ込んでいかないと。まあなんとかなるんだろう、今まで生きてきたんだから」

寂しい気持ちをぐっとこらえ、生きるために覚悟を決めた1か月。それぞれの選択と決断を信じて被災者たちは新たな一歩を踏み出そうとしています。

(2024年2月1日「夕方ワイド新潟一番」放送より)