「別に女になりたかったわけじゃない」 性別適合手術を選んだ理由 カルーセル麻紀81歳、差別や偏見と“戦い”の人生
──20代となった麻紀さんはテレビの世界にも進出。グラビアや日劇での出演のほか、店にも出続けるなど、売れっ子となった。その一方、街中で指をさされるようなことも多くなった。
悪口言われても、バカにされても、(全て腹に)しまっておけばいいと思っていた。
ワイドショーに出て、カーテンの下から足だけ出して、“この人は男でしょうか、女でしょうか”なんてやってたんですよ。「ヒールを履いているから女じゃないの?」「いや、男かもしれない」なんて。
街の歩いてる人たちに「カルーセル麻紀を知ってるか」とインタビューして、「知ってる。オカマだろ」と言わせるようなこともあった。本番中に生放送で、テーブルをひっくり返して、帰ったことありますよ。今、新橋にあるテレビ局ですけれども。それをやってから「カルーセルを生放送で使うな」と広まりました。
だって、失礼なこと言われたら、笑ってられないもの。(下品な演出が)すごく嫌だった。
■行くところはモロッコだと決めていた
──その後、睾丸摘出手術に続き、性別適合手術を受けることを選びました。
その頃の肩書きは女優でもなんでもない。「私ストリッパーです」って、ストリップに誇りを持っていました。女性ストリッパーはステージで小さな下着をつけていたけれど、私は(男性器が)ついているから。セロハンテープで貼っていたけど、激しい動きができないんです。もう、ハサミで切りたいくらい邪魔だった。
別に女になりたかったわけじゃないの。ダンサーとして、ストリッパーとしてやりたかったんです。
パリから来てた、一緒にステージをやったり、テレビに出たりしてた友達がいっぱいいたんです。その友達から、モロッコで性別適合手術を受けた人のことを聞いていたんです。だから私はもう、行くとこはモロッコだって決めていたんです、日本じゃできないから。
■手術後に高熱が出て… モロッコには40日間滞在
──そして1973年、モロッコで手術を受ける
行って砂漠の中ですよね。そしてカサブランカ。たまにラクダやロバがいるくらいで、はるか向こうに白い家が出てきたな、と思ったら、そこが産婦人科でした。
一緒にいった友達が先に手術を受けて、大体2時間くらいしたら帰ってきました。私も注射を2回打たれて、オペ室に。“どうやってするのかな”と思って見たんだけど…。夢から覚めたら3日たっていました。
目が覚めたとたん、「ああ良かった!なくなってる」と見て思いました。忌まわしいものがなくなっている、と。うれしかったですよ。
だけど術後、どんどん高熱が出てしまった。3時間くらいで着ていた浴衣もぐしょぐしょになるくらい。友達は大丈夫だったけど、私は全然退院できなくて。熱が出てて一人になって寂しいし、小さい部屋に移されて泣いてました。結局モロッコには40日間いました。
■戸籍が変わって、名前が変わって できると思わなかった
──カルーセルさんは2004年に戸籍上も女性となり、“平原麻紀”と改名しました。法律が変わったことなど、いまの状況をどう見ていますか?
すごくいいことだと思いますよ。みんなよく頑張ったじゃない。政府も世間も認めてくれたじゃない。でもね、あたしたち“少数派”なの、少ないの。だから、私が生きていて、こんな戸籍が変わって、名前も変わって、とできるとは思わなかった。
苦労しましたよ。精神科に行ったり、いろんな弁護士さん連れて裁判をやったり。でも、それは、あたしが最初にやればみんな楽になると思ったんですよ。
──カルーセルさん自身、今後こういうことをやりたいという夢はありますか?
ないわよ、あんた!あるわけないでしょう!81歳だよ、あたし。
──夢はないですか?
夢は好きなお酒飲んで、煙草を吸って、おいしいものを食べて、来た仕事を受けるだけ。後はもう行くだけだよ、天国へ行くか、地獄へ行くか、分かんないけれども。多分私は化けて出てくると思うけど。
今こうやって取材を受けて、楽しくしゃべって。これで十分。言いたいこと言ってます。