「国の財政」、みんなはどう考える?…「103万円の壁」「ガソリン減税」
「103万円の壁」「ガソリン減税」…。2024年末は、国民の“お財布”に優しい話題が多く取り上げられた。しかしそれらを実現するための“財源”を考える「財政」の議論が置き去りになっていないだろうか。今こそ「国の財政」、一緒に考えませんか。
■「国の財政」置き去りになってない?「103万円の壁」議論
2024年末、連日大きく取り上げられた「103万円の壁」引き上げのニュース。この議論は、2024年の総選挙で躍進した国民民主党が訴えた政策の1つで、組織に属して働く人々の「所得税がかかり始めるライン」=「103万」について、最低賃金の伸びを根拠に、「178万」まで引き上げようというものだ。「所得税がかかり始めるライン」を大幅に引き上げることは、働く人たち全員の所得税の“減税”となり、国民の“手取り増”に繋がるという主張である。
しかし、SNSをはじめ大きな盛り上がりを見せた議論には疑問も残った。なぜなら、「国の財政」についての話が置き去りになっている印象をどうしても、拭えなかったからだ。
そもそも国の政策の実現には、それをまかなうための“財源”が必要不可欠となる。本当に“減税”するのであれば、今ある国民へのサービスの何かを縮小して対応するのか、または何らかの形で新たに誰かに負担をしてもらうのかなど、「給付」と「負担」をセットで議論する必要があるはずだ。しかし、今回の議論でそれが深まったかといえば、疑問符がつく。
今回の議論では、「壁」を「178万」まで引き上げることで生じる「国の財政」問題について、国民民主側は「政府・与党側の責任だ」として本格的な議論を避けた。一方、政府・与党側も、「178万」まで引き上げた場合に生じる国と地方の「税収減」を示すにとどまり、その実現に向けた前向きな議論を避けた。政府・与党と国民民主のどちらにも、どうすれば「国の財政」を守りつつ「壁」を「178万」まで引き上げられるかという、政策の実現に向けた視点が欠けていた印象が残る。
度重なる協議の末、2024年の議論は、物価上昇を踏まえた「123万」まで引き上げるという「政府・与党の提案」でストップした。ある財務省幹部は、「『178万』まで引き上げて一番利益を受けるのは、若い世代ではなく高所得者だ。協議では“公平性の観点”も議論すべきだったのにできなかった」と悔やんだ。「所得税がかかり始めるライン」を“全員一律”で引き上げた場合、税率の高い高所得者の減税額ほど大きくなるからだ。
ただ、別の省庁の幹部は、「実際には中身のない予算もたくさんあるのだから、組み替えれば財源も見つかるのでは」と指摘した。政府が「壁」の引き上げに前向きな議論をしなかったことに疑問を呈したと言える。
■「ガソリン減税」も「国の財政」に関わる問題だが…?
国民民主はまた、政府・与党に「壁」の引き上げのみならず、「ガソリン減税」なども迫っている。しかしここでも、国民民主はこれに伴う「国の財政」問題についての本格的な議論を避けている。一方、政府も、「壁」の引き上げの議論の際と同じく、それを実施した場合の国と地方の「税収減」を試算するにとどまり、「実現」に向けた前向きな議論は進んでいない。
国民民主が主張するこれら2つの政策は、一言で言えば“減税”であり、長引く物価高に直面する国民の“お財布”には優しい話に見える。ただ、一つ心に留めておかなければならないのは、悪化の一途を辿る日本の「財政状況」についてである。国債の発行残高はすでに1100兆円あまり。財政は先進国の中でも際立って悪く、“借金”が増え続ける一方だ。
2024年末に決まった『2025年度予算案』は、一般会計の総額が115兆円を超えるものとなったが、その実行のために必要な“財源”を税収だけではまかないきれず、28兆円を超える新たな国債、いわば国の“借金”を発行する。すでに“借金”が膨れ上がっている状況の中、日本はさらに新たな“借金”を背負う。そしてそれを返さなければならないのは、子どもたちを含む“次の世代”であることを忘れてはならない。
ある財務省幹部は、「“財源”が見つからないまま『178万円』まで上げたり『ガソリン減税』をしたりすれば、穴埋めは将来世代に担ってもらうことになる。結果として将来的に“増税”せざるを得ない可能性もあるがそれで良いのか」と指摘した。
■ミンナで語って年を越そう!…「国の財政」のあり方は!?
そもそも日本はイマ、急速な少子化により、国の“借金”の返済を担う若者が少なくなっている現状がある。いまや、“財源”を生む力さえ衰えつつあるのだ。
長引く物価高により、目の前の生活は苦しさを増している。ただ、目先の利益を優先するがあまり、“未来”に禍根を残している面もあるのではないだろうか。
「103万円の壁」の引き上げや、「ガソリン減税」、「教育費の無償化」は、目の前の苦しい生活のための“救い”にはなる。その一方で、これらの実現に伴いさらに膨らむ日本の“借金”の返済を担うのは、イマの若者たちやその次の世代であることも思い出すべきである。だからこそ、イマを生きる私たちは、目の前の“甘い言葉”の方向性が間違っていないのか、その手段は本当に適切なのか、厳しくチェックする責務を負っているはずだ。
「国の財政」をめぐる議論はイマに始まったことではない。2025年こそは、この議論を曖昧にしない1年にすることができるだろうか。「国の財政」はどうあるべきか、そしてどう議論されるべきか、2025年を迎えるイマこそ、みなさんの考えを教えてください。