東芝メモリ成毛社長“反撃へのシナリオ”3
東芝メモリ代表取締役社長・成毛康雄氏に聞く「飛躍のアルゴリズム」。2つ目のキーワードは、「どこに売却?『説明できない』けれど『信じてほしい』」。かつて“DRAM撤退”でなめたことのある辛酸――今回のメモリ事業売却ではどうだったのか。
■報道先行…説明できぬ“つらさ”抱え現場へ
――メモリー事業売却について成毛さんがつらかったこと、これが2つ目のキーワードになります。「どこに売却?『説明できない』けれど『信じてほしい』」――この信じてほしいというのは、誰に対しての思いだったんでしょうか。
それは東芝メモリの社員のみなさんに対する思いでした。新聞などで、報道がいろいろと先行すると、外資に買われるんじゃないかと。DRAMをやった時に、そういうつらい目にあっていましたし、先々どうなるかわからない不安が社員のみなさんはとても大きかったと思います。
一方で、交渉の中身を、直接、具体的に話せないと。私としては事業を日本に残して、みんなで働く環境を継続したいということ以外はなかなか説明できなかったということで「信じてほしい」というのは、そういうところから来ています。
なるべくテレビ会議などはやらずに、直接、工場とかの拠点に行って、お互いの顔色を見ながら話をするということを続けていました。
――「報道はこう出てるけど実は…」という話はできないけれど、直接顔を見て、希望があるような話をできればと。
本当は、いろいろ説明できれば良かったんですが、最終的に日本の今の体制を変えずに頑張っていくという気持ちを説明するにとどまってしまうというところが、非常につらいところでした。
■18年止まったままのエレベーター
――ここに写真があります。エレベーターの写真ということで、こちらのエレベーターは?
四日市工場の事務棟にある2基のうちのエレベーターの1基です。
――「DRAM終息時(2001年)から休止中」と張り紙がありますね。
2000年にITバブルがはじけたということで、それまで我々のメモリ事業はDRAMを主体にしていたと。ところがDRAMで利益がとれなくなったということで、2001年にDRAM事業を撤退ということになりました。だから、その時の悔しさとか苦しさを忘れないようにしようということで、このエレベーター1基をずっと止めてあるという状態です。
――当初はコスト、電気代削減だった?
そうですね、2000年の時はエネルギー削減、コスト削減で、工場も止めたので、工場で働く人の仕事もなくなったと。最初は草むしりもしてましたが、最後は車のメーカーにアルバイトに行ってもらうとか、みんな相当つらい思いをしました。それから退職をすすめるということもやりました。その時の、苦しさや悔しさというのは、経験したメンバーでなければわからないと思います。それを忘れないように、なるべく後の世代にも伝えたいという意味で止めています。
■DRAMの試練、乗り越えた仲間たちと
――今回のメモリ事業売却の時も、これを思い出したりということはあったんですか。
もちろんですね。この時も工場を海外のメーカーに売る方がいいのか、事業をどういう風に変えていくのがいいのか、ずっと話題になっていましたので、あれと同じ事がまた起こるかという不安が、社員のみなさんには大きかったと思います。
――その当時に、成毛さんとそのDRAMの苦しさを乗り越えた仲間たちは、今回も周りにいたんですか。
はい、非常に多く残っておりました。そういう人たちにとにかく信じて欲しいということで、結束をお願いしたと。
――その中でも2兆円という価値を認められたのは大きかったんでしょうか。
DRAMの時は、DRAM事業が縮小し、どんどんコストも見合わなくなって、最後にやめたんですが、今回は、我々の事業が評価されて、2兆円という金額もついたという部分で、その頃とは違って事業に自信が持てるというのは大きな違いだったと思います。
ただ、投資をしないといけないというのは、みんなの頭にはあったので、その間にも投資を続けたというのは、安心材料にはなったかなとは思います。まだこれから先があるという意味ですね。