米で大ヒットの映画「オッペンハイマー」 子孫らが語る原爆開発と投下から得るべき教訓とは(3)
第二次世界大戦中、アメリカの原爆開発に関わり、「原爆の父」とも呼ばれた科学者、オッペンハイマー氏を描いた映画がアメリカで大ヒットしている。原爆開発と日本への投下、そこから得るべき教訓を、アメリカの当時の関係者やその子孫はどう考えているのか。全4回の3回目は、原爆開発計画に参加した医師の孫、ジェームズ・L・ノーランJr.さんへのインタビュー(前編)。(ワシントン支局 渡邊翔)
■原爆開発計画に参加した医師たち
――あなたの祖父は、どのようにしてマンハッタン計画に関わるようになったのでしょうか?
祖父は、(原爆開発が行われた)ロスアラモス研究所で働くよう最初に誘われた人々の1人でした。(原爆開発を主導した科学者)オッペンハイマー氏は、全ての重要な施設をロスアラモスの研究所に置き、重要なプログラムを行えるようにしたかったのです。ニューメキシコ州の人里離れた場所に、最高の物理学者を呼び寄せられるようにするためです。
私の祖父は、産婦人科と放射線科の訓練を受けていて、あらゆる意味で理想的な人物でした。祖父は、病院の運営もできるし、重要な問題である放射線についても知っていたからです。オッペンハイマーから祖父への最初の書簡でも、彼は祖父の放射線科医としての経歴が役立つということを認識していることがわかります。祖父は、がんの研究と治療のために放射線に関する訓練を受けていて、戦後はその道に戻りました。
――ロスアラモス研究所では、あなたの祖父はどのような役割を担ったのでしょうか?
祖父は現地の病院を運営していました。祖父は産婦人科医だったので、最初の2年近くの間、主な仕事は出産のサポートでした。最初の1年だけで80人の赤ちゃんが生まれましたが、祖父がその全ての出産をサポートしました。オッペンハイマー氏の娘や、祖父自身の娘で私の叔母であるリンの出産も含めてです。
一方、友人のルイス・ヘンペルマン医師の主な役割は「ヘルス・グループ」と呼ばれる研究室内の仕事で、放射線や被ばくなどの問題に取り組んでいました。やがて祖父の仕事も、病院運営からヘルス・グループでヘンペルマン医師と一緒に行う作業に変わりました。1945年春のことでした。人類初の核実験「トリニティ実験」が行われることを踏まえ、祖父は実験に伴う(関係者や周辺住民などの)健康と安全面の問題に対応するように言われました。トリニティ実験は、広島と長崎に原爆が投下される数週間前の1945年7月に行われました。
■医師からの放射線に関する警告を軽視した軍
――現代の我々はもちろん、原爆による放射線被害が、原爆による被害の大きな要素であることを知っています。マンハッタン計画や広島・長崎への原爆投下時は、放射線の影響はどのように理解されていたのでしょうか?
プルトニウムやウランは、新しい元素なので、彼らはそれらについて多くは知りませんでした。ある程度は知っていましたし、危険であることも知っていました。放射線による被害があることも知っていましたが、おそらく彼らは、長期的影響については知りませんでした。トリニティ実験前におきた重要な出来事の1つが、医師が放射性降下物について懸念していたことです。医師らは報告書をまとめて、(計画の軍トップ)グローブス将軍に対して、この問題を深刻にとらえて、もっと厳格な安全性と避難の措置をとるように要請したのです。
グローブス将軍にその報告書を渡したのは、祖父でした。グローブス将軍は、祖父に対して否定的な態度を示し、被ばくに関する健康と安全面の問題よりも、国家安保と秘密の問題をもっと懸念していると伝えたのです。報告書を読んだ後、グローブス将軍は祖父を、機密に関わる問題を不当に心配している、目立ちたがり屋の記者みたいなやつだと言って否定したのです。
■医師たちが屈した「圧力」
――なぜ米軍は、放射線の影響を過小評価したのでしょうか? 機密保持の問題以外にも理由があったと考えますか?
マンハッタン計画に関わっていた私の祖父ら3人の医師は、放射線被害を懸念していました。科学者の中にも同じ意見の人がいて、予備実験を行ったところ、放射性降下物が観測されたのです。計算の結果、深刻な放射線被害が出るということで、彼らは非常に懸念していました。しかし、計算をし直すよう圧力がかかったのです。
いくつかの圧力がありました。ひとつは、軍および政治からの圧力。トルーマン大統領(当時)はポツダム会談(1945年7月、米英ソ3か国の首脳が、ドイツや日本の戦後処理について協議した)に出席する前に、原爆が完成したのかを絶対に知りたかったのです。原爆がソ連のスターリンとの交渉に役立つと考えたのです。
もうひとつは科学的な圧力です。科学者は約2年も原爆開発に取り組んでおり、核分裂からエネルギーを取り出せるのか、結果を出したいという圧力もありました。映画「オッペンハイマー」でも描かれている1954年の公聴会で、オッペンハイマー氏は、「科学的に甘美なものを見つけたら、まずやってみるものだ」と発言しています。発見という科学的衝動でしょう。
ヘンペルマン医師によると、彼らは計算し直し、核実験ができるところまで懸念レベルを下げたのです。当初の計算では核実験を行うべきではなかったからです。医師たちはまだ懸念していましたが、核実験が可能になるように懸念のレベルを下げたのです。このような様々な圧力がありました。グローブス将軍のように、既に20億ドルも費やしていたので後戻りできない、という考えもありました。
――医師らも当時、そのような圧力に従うしかなかったと思いますか?
そう思います。医師はトリニティ実験前、日本への原爆投下前、マーシャル諸島での核実験前に、何度も警告していました。ロスアラモス研究所内の安全性にすら懸念がありました。放射線被ばくによって死亡事故も起きました。医師はその度に警告しましたが、軍が押し戻し、否定しました。時には医師が伝えたことを意図的に間違って解釈すらしました。私の祖父を含めて、軍に所属している医師もいたので、難しい立場でした。軍とうまくやって行く必要があるし、時に放射線被害の隠蔽を手助けすることもありました。複雑な状況にあったのです。医師たちは正直に何が起こるかについて警告を発し、影響を懸念していましたが、ある種の圧力に屈しなければならない立場に置かれたのです。
■祖父が広島と長崎で見たもの
――広島と長崎への原爆投下後、あなたの祖父らは両都市に入りました。何を見て、原爆の被害や放射線被害をどのように認識したのでしょうか?
私の祖父と同僚の医師スタフォード・ウォレンは、医師・科学者・軍らのグループとして、日本の降伏直後の1945年9月5日に横浜に到着し、広島と長崎に行きました。彼らは広島に入った最初のグループで、グローブス将軍によって集められました。放射線被害を否定するために、日本から実際の情報を得ることが目的でした。グローブス将軍は、日本からの情報によって放射線被害が大きく、健康に重大な影響をもたらしていると分かることを懸念し、それを抑え込みたかったのです。
祖父らが目撃したのは恐ろしいことでした。祖父が調査団の人たち、そして被爆者の方々と撮った写真を持っていますが、彼らの被害が分かります。放射線によるダメージもです。彼らは原爆投下の1か月後に現地入りしましたが、放射線被ばくによる死者は増え続けていたのです。ウォレン医師によると、病院を訪問した際にいた被爆者の方が、翌日行くと亡くなっていたということもありました。彼らはそれを報告書にまとめ、グローブス将軍に渡しました。1945年11月の議会の公聴会で、彼が調査について証言するためです。しかしグローブス将軍は議会証言で、医師がまとめた報告をねじ曲げて伝え、報告書で書かれた放射線被害を軽視しました。彼は放射線被ばくの危険な影響を過小評価しようとしたのです。
――医師らはトリニティ実験以前から放射線被害の危険性を警告していましたが、軍は隠蔽・軽視を続けました。こうしたあなたの祖父ら、医師の経験から学ぶべき教訓はなんでしょうか?
アメリカには、原爆についての「公式見解」、「支配的見解」のようなものがあります。「原爆が第二次世界大戦を終わらせ、アメリカ人だけでなく日本人の命も救った」「当時残された選択肢は、原爆投下か、多くの犠牲を伴う本土上陸作戦しかなかった」というものです。一方でそれに反する見解もあります。「選択肢はその2つだけではなかった」「日本はあらゆる意味で既に敗北していて、原爆は必要なかった」という見解です。「アメリカは日本よりも、ロシアの動きを懸念していた(から原爆投下に踏み切った)」という分析もあります。その中で、放射線の影響の恐ろしさに言及する人もいました。しかしアメリカ政府の高官は、この見解を十分に認識していたにもかかわらず、軽視しようとしたのです。例えばスティムソン元陸軍長官(*原爆投下時の陸軍長官)が発表した論文(1947年)では「原爆投下によって日本上陸作戦は回避され、100万人のアメリカ軍兵士の命が救われた」と書かれてますが、放射線被ばくについては全く言及されていません。これは明らかに意図的です。放射線被ばくの長期的な影響に関する知識があれば、核兵器の開発にもっと国民から抵抗があったでしょう。原爆や水爆の開発を続けるために、放射線の影響を軽視し続ける理由があったのです。
――それは、現在の核兵器使用を正当化する議論にも影響があると思いますか?
その通りです。例えば「戦術核兵器」というのは誤った言葉の使い方だと私は思います。戦術核は広島と長崎で投下された原爆よりもはるかに強力です。広島と長崎を訪問すれば・・・日本の人々はいまだに放射線の影響について研究し、人々は今も放射線の影響に苦しんでいるのです。核兵器を通常兵器と同じように理解してはいけません。恐ろしく長期的影響がある、独特のテクノロジーなのです。
(4)へ続く
【ジェームズ・L・ノーランJr.さん】米ウィリアムズ大学で社会学の教授を務める。祖父のジェームズ・F・ノーラン氏は医師として、原爆開発計画「マンハッタン計画」に参加。祖父の残した資料を発見したことをきっかけにマンハッタン計画と医師たちとの関係を調査し、著書「アトミック・ドクターズ」にまとめた(邦訳版も出版)。去年長崎を訪問し、現在は長崎への原爆投下についての研究を行っている。