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米で大ヒットの映画「オッペンハイマー」 子孫らが語る原爆開発と投下から得るべき教訓とは(1)

2023年9月17日 14:53
米で大ヒットの映画「オッペンハイマー」 子孫らが語る原爆開発と投下から得るべき教訓とは(1)
オッペンハイマー氏 (提供:米国立公文書館)

第二次世界大戦中、アメリカの原爆開発を主導し、「原爆の父」とも呼ばれた科学者・オッペンハイマー氏を描いた映画がアメリカで大ヒットしている。原爆開発と日本への投下、そこから得るべき教訓を、アメリカの当時の関係者やその子孫はどう考えているのか。全4回の1回目は、オッペンハイマー氏の孫であるチャールズ・オッペンハイマーさんへのインタビュー(前編)(ワシントン支局 渡邊翔)

■映画は核の危険性を考えるきっかけに

――映画「オッペンハイマー」がアメリカや世界で大ヒットし、オッペンハイマー氏の人生やマンハッタン計画、広島と長崎への原爆投下について知る機会となっています。多くの人が核兵器問題についても学ぶ機会になっています。映画やアメリカでの反応をどう受け止めていますか?

このテーマについてもっと話し合いたい、という前向きな反応だと思います。そして、核兵器の危険性に関して話し合わなくてはならない、というメッセージが改めて伝わったと思います。なぜなら、アメリカでは若者世代も含めて多くの人々が、世界にはお互いに向き合っている多くの(核)兵器があり、まだ極めて危険であることを忘れがちだからです。それが映画にある最も強いメッセージの1つです。映画の最後に、我々皆が核兵器によって死ぬかもしれないということが描かれています。それこそが、核兵器による危険について話し合う上で、最も重要な要素になるでしょう。

――映画のストーリーについてはどうでしたか?ノーラン監督は、人々がより理解しやすいような表現をしたのかもしれませんが。

ノーラン監督がしようとしたことは、誰でも共感できるストーリーを作ることでした。あなたが戦争中、国のために義務を果たさなければならない立場にいたらどうなるか。自分が創ったテクノロジーをコントロール出来ず、その使い道も決められない時に何が起こるか。一緒に働いていた人々があなたに敵対し攻撃する時、どうなるか。これらは誰もが共感できる劇的なテーマですし、難しい問いだと理解してもらえると思います。ノーラン監督は、こうしたことが何を意味するか、映画を見た人々に話し合わせることに成功しました。私が最初に映画の話を聞いた時、すでにオッペンハイマーに関する多くの本や映画があるのに、なぜ新しい映画を作るのだろうと思いましたが、ノーラン監督に会った時、彼がいかにすばらしい映画監督で、なぜ多くの成功を遂げているか分かりました。

■戦後、核不拡散を模索したオッペンハイマー氏

――映画の中で、ロバート・オッペンハイマーが広島に原爆投下がされたのを聞いた後の心の葛藤を表すシーンや、トルーマン大統領(当時)に「私は手が血で汚れているように感じる」と言うシーンなどが描かれています。彼の核兵器に関する考えは、マンハッタン計画の間、あるいは日本への原爆投下後に変わったのでしょうか?

そこは映画で十分に表現しきれなかった点だと思います。私の祖父や他の科学者が何を考えていたか。彼らは原爆投下直後まで、原爆がいかに恐ろしい兵器かを認識していませんでした。彼らは、原爆の威力は知っていましたが、このような兵器を開発する力によって、もう以前のようなやり方では戦争は出来ない、というメッセージが世界全体に送られることを願っていました。彼らは、アメリカだけでなく他国も原爆を生産できるのを目の当たりにしました。戦争は恐ろしいことです。第二次世界大戦は、アメリカが原爆を投下したというだけでなく、数千万人が犠牲となり、日本・ロシア・アメリカを含めてあらゆる方面から残忍な方法で殺し合いが行われ、全世界の人々を破滅させることが出来るほど強力な兵器を完成させるに至りました。

それが祖父が目の当たりにしたことです。一方で、祖父はそれを防ぐ方法にも目を向けて、その後も提案し続けました。1945年のトルーマン大統領(当時)との会談だけでなく、その後も祖父とその他の顧問らは、軍拡競争を避け、核兵器によって人類が滅亡する状況にならないようにする科学的な国際協力に関する計画に取り組んでいました。それが祖父の重要な取り組みの1つでした。

――マンハッタン計画は元々、ドイツより先に原爆を開発するのが目的でしたが、アメリカはドイツが原爆を開発出来ないとわかってからも開発を続け、最終的に日本が標的に選ばれ投下されました。戦後、多くの科学者が、当時は実験を止められない雰囲気があったと証言しています。何が原爆開発を続けさせたのでしょうか?

戦争における軍の動きという点でみれば、止めることはできなかったと思います。当然、科学者も日々、技術的な事項(開発など)に集中していました。しかし計画全体を見ると、アメリカ軍は、日々、日本への原爆投下を決断していき、それを止めるチャンスは全くありませんでした。彼らは、日本に日々投下していた爆弾の製造ペースを遅くすることはなかったし、この新型爆弾の製造を止めることもありませんでした。それが日々起きていたことです。

科学者もその一端を担っていましたが、日々敵を打倒するために戦っている戦争で、それを誰かが止められたとは思いません。実際にそれは起きませんでした。今になって振り返れば、アメリカは原爆を投下するべきではなかったと多くの人が言うでしょう。それはある意味、事実です。実際に数十万人が亡くなったわけですから。過去に戻って歴史を修正できるなら、第二次世界大戦も起きるべきではないし、日本は真珠湾を攻撃するべきではなかったとも言えます。非常に難しいことです。しかし時代の流れの中で、原爆の開発は止められなかったと思います。

■祖父は二度と核兵器が使われないことを願っていた

――映画を観た人たち、特に10代の若者に感想を聞く機会がありましたが、映画の中でオッペンハイマーのある種の後悔を感じ取ったと話していました。オッペンハイマーは戦後、核兵器の国際管理体制の整備を主張し、水爆実験に反対もしました。その背景には、彼のある種の後悔があり、それもあって、戦後は核拡散に反対する立場に転じたと理解していいのでしょうか?

祖父は戦時中の行動について、「後悔」という観点から話すことはありませんでした。しかし、今何をするべきかについては話しました。我々は戦争中にこの核兵器を開発した。今、世界はそれにどのように対応するべきか、ということです。祖父は、世界のこのようなテクノロジーと科学の変化に対する唯一の解決策は、さらなる(世界の)協調だと考えたのです。これは理解できます。我々は、民族同士や国同士など、様々な構図で戦い、最終的に核兵器を得ました。これは、我々が新たな手法で協調しなければならないという事を意味するのです。この点こそが変化であり、「間違ったことをしてしまった。あんなことはするべきではなかった」と、突然理解したわけではないのです。それは全く違います。祖父は、科学(の進歩)は起きるべきものだ、と言ってました。彼にとっては、(原爆の開発は)痛ましい義務ですが、(科学という観点からは)そうしなければならなかったと感じていました。しかしそれよりも重要なことは、我々が前に進み、技術と科学のもたらす脅威に対して、もっと協調するべきなのは明らかだ、ということです。それが祖父の取り組みを要約する正しい方法であり、彼は、我々全員が(核兵器によって)壊滅するという将来の脅威を防ぐために全力を尽くしました。祖父は戦後、アメリカ政府からも攻撃されましたが、だからこそ、我々は、いまだに彼について話しているのです。

――つまりオッペンハイマー氏は、核兵器を二度と使用してはならないと考えていたということですね。

彼は、我々がもう二度と核兵器を使わないことを願っていたと思います。それが彼の目標であり、私はその考えを広め、原子力のエネルギーへの利用を支持していくつもりです。なぜなら、同じ科学によって、エネルギーも、兵器も作れるからです。科学そのものを変えることはできません。科学そのものを変えて世界を動かすようなことはできないのです。ですが、科学をどう使うか、戦争に有益な産物をどう使うべきかを決めることはできます。

((2)に続く)