米で大ヒットの映画「オッペンハイマー」 子孫らが語る原爆開発と投下から得るべき教訓とは(4)
第二次世界大戦中、アメリカの原爆開発に関わり、「原爆の父」とも呼ばれた科学者、オッペンハイマー氏を描いた映画がアメリカで大ヒットしている。原爆開発と日本への投下、そこから得るべき教訓を、アメリカの当時の関係者やその子孫はどう考えているのか。全4回の4回目は、原爆開発計画に参加した医師の孫、ジェームズ・L・ノーランJr.さんへのインタビュー(後編)。(ワシントン支局 渡邊翔)
■広島・長崎は「想像もできない完全な惨状」
――あなたの祖父は終戦後、原爆開発や日本への原爆投下についてどう考えていたのでしょうか?
祖父はマンハッタン計画について、ほとんど話したことがありませんでした。特に日本を訪問した時のことについては、ほぼ一度も話さなかったと言ってよいと思います。私が知っているのは、祖父はアメリカ軍から離れ、医師としての仕事に戻りたがっていたということです。祖父は患者を治療する仕事がしたかったし、終戦後は婦人科腫瘍医として、女性のがん研究や治療をしました。
祖父の娘でさえ、祖父が日本で目撃したことを話した記憶がないほどです。ただ祖父の甥がかつて、日本で目撃したことについて聞いた際、「話せない」と言った後、「想像すらできないほどの完全な惨状だ」と語りました。家族でも話し合いましたが、日本での経験は祖父を苦しめ、それを完全に受け入れることができなかったのだと思います。医師として、祖父が一番気にかけたのは、患者の健康でした。広島と長崎で死者だけでなく、原爆の(放射線などの)影響で亡くなっていく人たちを目撃したのは、辛かったのだと思います。
――終戦後に軍を離れたかったということは、これ以上核兵器開発に関与したくなかったと?
その通りです。私の叔母は、祖父がテーブルに座り、ネバダ州での核実験に関する新聞記事を読んでいた時、首を振って「やつらは自分たちがしていることを何もわかっていない」と言ったのを覚えています。祖父が核兵器開発の継続に反対していたことを示しています。
■科学者らが称えた「産婦人科医」としての祖父
――映画「オッペンハイマー」では、オッペンハイマー氏が核兵器が使用された後、後悔・葛藤するようなシーンが描かれていました。あなたの祖父はどうだったのでしょうか?
興味深いことがあります。祖父は晩年の1983年に、マンハッタン計画の同窓会に出席しました。ロスアラモスに最初に人々が移住してから40年後、その最初に移住した人々の集まりでした。超一流の物理学者らも出席していました。そこで様々な科学者にインタビューしたドキュメンタリーがありますが、ほぼ全員が、「我々がここでしたのはひどいことだった」と言い、マンハッタン計画に参加したこと、彼らの開発したものが生み出した結果について、明確な後悔を吐露したのです。当時は冷戦の真っ只中で、数千の核兵器が配備可能な状態でした。祖父もその場にいましたが、同窓会で最ももてはやされたのは、実は祖父だったそうです。ロスアラモスで多くの赤ちゃんをこの世に送り届けたことに対してです。私は、彼らが祝えたのは破壊的な兵器の発明ではなく、この世に命を送り届けることに貢献した人物のことだったのだ、と捉えています。人の命を奪うのではなく、人の命の誕生に貢献した人物のことを。祖父もマンハッタン計画での自身の役割を聞かれると「ただ出産のお手伝いをしただけです」と答えたことがあったそうです。それが彼の思いだと思います。破壊的な兵器の開発ではなく、赤ちゃんたちの出産の手伝いをしたことが誇りだったということです。
■広島と長崎の描写がない映画が、それでも投げかけるものとは
――映画「オッペンハイマー」が大ヒットしていますが、その重要性をどう考えていますか? この映画がアメリカの人々の原爆に対する認識に与える影響は?
最終的にどのような影響があるかはもう少し見てみましょう。映画では、オッペンハイマーの人物像、そしてマンハッタン計画に関わった彼の道徳的な葛藤が描かれています。オッペンハイマーがトルーマン大統領と面会したシーンで、「私の手は血で汚れているように感じる」と発言します。「我々科学者は罪を知った」とも言いました。オッペンハイマーは後悔の念を示し、公に水爆の開発に反対を表明しました。
オッペンハイマーは私の祖父と同じく、終戦後すぐにロスアラモスを離れ、プリンストン高等研究所の所長になりました。オッペンハイマーは当然、核政策に関与していましたが、彼が提唱していたのは、核兵器の国際的な管理でした。核兵器のコントロールができず、拡散し続けるのを懸念していました。それが彼の見解でしたが、それにより問題が生じました。共産主義に近づいた過去の経歴によって、いわゆる「赤狩り」の対象になったのです。
映画で描かれていない部分もあります。日本についての描写がないこともそうです。日本、つまり広島と長崎で何が起きたかについて何も触れていません。放射線のダメージについても触れられていません。公平を期して言えば、オッペンハイマーは日本に行きませんでした。映画はオッペンハイマーに関する作品なので、(日本について直接的に描かれていないのは)合理性はあります。ただ映画では、オッペンハイマーが(原爆投下直後に)演説した際、聴衆の皮膚が剥がれ落ちたり、黒焦げの人の体を踏みしめるようなイメージが出てきます。また映画では、私の祖父も含め、医師は登場していません。
映画の影響ですが、原爆使用の倫理的正当性の問題が重く取り上げられていたので、人々にそれを考えさせることになるでしょう。例えば、オッペンハイマーがトルーマン大統領と面会するシーンで、トルーマン大統領が「広島に原爆投下をしたのは私の決断だ」と言うと、オッペンハイマーが「長崎もです」と言う場面があります。これは、我々が原爆を1回だけでなく2回投下した、ということを軽視するべきではないということであり、映画はそのような形で問いを投げかけています。
映画の中で科学者らは、自分たちが何をしているのか、何に参加しているのかという倫理的な問いに直面していました。そして、やがてオッペンハイマー自身も同じ問いに直面するのです。これらのことやオッペンハイマーの苦悩が描かれたことで、核兵器の開発と使用について、より批判的に、かつ慎重に考えるよう促していると思います。
■原爆開発がAIの開発に投げかける教訓
――原爆の最大の教訓は、広い意味では科学者が新興技術というものとどう向き合うか、ということでしょうか?
全く同じ意見です。多くの人々が同じ考えです。AI研究に関わる人々が、オッペンハイマーの核実験時の「我は死なり、世界の破壊者なり」という発言を引用し、懸念を表明しています。AIを解き放った時、長期的に何が起こり得るかということです。
マンハッタン計画は新たな技術に関する教訓、つまりその長期的な影響や、意図せぬ影響を考えるよう我々に促しています。技術を持っているなら使うべきだ、それが(理論的に)可能だからやらなくてはいけない、と必ずしも考えてはいけないのです。核軍拡競争の前に自問自答しなければならないことです。他のテクノロジーでも同じです。
――アメリカでは多くの若い世代が映画を観ていますが、若い世代が1945年の原爆開発から学ぶことは何でしょうか? 核なき世界について、何を話し合っていけばよいでしょうか?
1945年から78年が経ちました。なので原爆開発が話題になり、人々が考えるようになるのは良いことだと思います。核拡散が続き、世界最大規模の核兵器を保有する国の指導者が核兵器の使用について話している今、映画は人々がこの破壊的な兵器と核廃絶について真剣に話す重要なきっかけになり得ます。
もうひとつ、若者が核兵器の開発・使用と、他のテクノロジーの開発・使用を結びつけて考えてくれることを願います。考えは同じです。この技術を開発できるかやってみよう、その結果は考えなくてもいいじゃないか、という技術者や科学者もまだいます。しかし、核兵器を開発したマンハッタン計画の参加者は後悔しています。SNSの開発に関わった人たちの中にも、取材に対し、「怪物を作り出してしまった」と語っている人たちがいます。こうなるとは予想しなかった、そんな意図はなかったと言っても、開発の結果、それが我々に跳ね返ってくるのです。
――広島と長崎への原爆投下の必要性についてはどのように考えていますか?
私は個人として、原爆投下は必要なかったし、正当化もされないと考えています。ただ当時、その時あった情報しか知らなかった多くの人々は、戦争を早期に終わらせるために原爆投下は必要だったと本当に考えていたんだと思います。日本への上陸作戦を本当に懸念していた人々もいます。もし自分が当時その立場にあったら、彼らがそう考えてしまうのは理解できます。当時の人々は、原爆がどういうものかを全く理解していませんでした。私は必要ではなかったし、正当化もされないと考えていますが、今それを言うのは簡単だともいえます。
【ジェームズ・L・ノーランJr.さん】米ウィリアムズ大学で社会学の教授を務める。祖父のジェームズ・F・ノーラン氏は医師として、原爆開発計画「マンハッタン計画」に参加。祖父の残した資料を発見したことをきっかけにマンハッタン計画と医師たちとの関係を調査し、著書「アトミック・ドクターズ」にまとめた(邦訳版も出版)。去年長崎を訪問し、現在は長崎への原爆投下についての研究を行っている。