特集「キャッチ」【戦後79年】父が残した“千人針” 「物言わぬ語り部」を後世に託す遺族たち 福岡
父が残した戦争遺品を、福岡県筑前町の平和記念館に託した男性がいます。「物言わぬ語り部」と言われる戦争遺品。そこに込められた思いとは。
■綿内(わたうち)健二さん(73)
「日本の国のために亡くなった方もいらっしゃるという、深い思いを感じます。」
福岡県筑前町にある慰霊碑の前で、戦争の犠牲者たちに思いをはせるのは、東京都練馬区に住む綿内健二さん(73)です。
慰霊碑は、もともと時計台でした。
その前で、戦時中に撮影された1枚の写真があります。多くの仲間たちと写っているのは、健二さんの父、綿内徳次(とくじ)さんです。
ここにはかつて、パイロットを養成する「大刀洗(たちあらい)陸軍飛行学校」がありました。のちに特攻隊員となった多くの飛行兵が教育を受けた場所です。
「どうせ死ぬなら好きな飛行機に乗って華々しく死にたい」
戦時中の1944年4月、当時18歳だった徳次さんは、そうした思いから特別幹部候補生に志願したといいます。大刀洗陸軍飛行学校に入校してパイロットとしての基礎を学びました。
卒業後は東京の調布飛行場で戦闘機の操縦訓練を受けたものの、実戦を経験することなく終戦となり、生き延びました。
あまり戦争の話を口にしなかったという徳次さんですが、それでも、息子の健二さんは、父の記憶に触れた時のことをよく覚えています。
それは、敵の攻撃に遭い、無残な姿で命を落とした戦友たちを目の当たりするという、父にとってあまりにもつらい現実でした。
■健二さん
「いつもいる仲間がいない。その時の悲しい気持ちは、今の生きているお前たちには分からないと強く言われました。そんな悲しいことはないと言っていました。」
徳次さんは3年前、96歳でこの世を去りました。父の死後、健二さんはふと仏壇の奥からあるものを見つけました。
それが「千人針」です。
千人針は戦時中、1000人の女性が1枚の白い布に1針ずつ赤い糸で結び目をほどこし、出征する兵士に贈られれました。無事に帰ってきてほしいとの願いが込められています。
去年11月、健二さんは、父の千人針を福岡県筑前町の「大刀洗平和記念館」に寄贈しました。
大刀洗平和記念館は、徳次さんが訓練を受けた大刀洗陸軍飛行学校や、かつて「東洋一の航空基地」と評された大刀洗飛行場の歴史を伝えています。
7月下旬、健二さんは平和記念館を訪れました。職員に案内された先にあったのは、去年寄贈した父の徳次さんの千人針です。
■健二さん
「ここに来て、ほかの千人針と違うと言われて。お金が縫い付けられています。『五銭は、四銭=死線を越える。十銭は、九銭=苦戦を越える』。」
ことし4月から常設展示されていて、健二さんはこの日初めて見に来ることができました。
■健二さん
「父の生きてきたものがここにも残っているとの思いがこみ上げてきました。この千人針を見て、どういう思いで戦地に向かったかなどの見方をしてほしいと思います。」
千人針を初めて見たという学生は、こう話しました。
■訪れた学生(19)
「戦う人だけでなく、後ろで支える人の強い思いも感じ取れるものだと思います。戦争はいけないものであるということが大前提ですし、平和を祈ることが最重要と身に染みます。」
大刀洗平和記念館には、戦争にまつわる遺品がほかにもあります。
■大刀洗平和記念館・岩下定徳 事務長
「大刀洗陸軍飛行学校の生徒が陸軍からもらった懐中時計を展示しています。ご遺族からの寄贈です。」
遺族などから寄贈された貴重な遺品や資料は、およそ1万点にのぼります。
しかし、スペースに限りがあるなどの理由で、全てを展示することはできず、倉庫で保管されているものが多くあります。
「私は相変わらず元気よく勉強しています」
「操縦術の習得にまい進しています」
なかには、特攻隊員が大刀洗陸軍飛行学校時代に家族に宛てて書いた手紙や、戦死を家族に通知する死亡告知書などもあります。
戦禍の記憶を後世につなげるため、大刀洗平和記念館では、常設展示のほかにも年に2・3回、企画展を開催し、寄贈された戦争遺品の一部を公開しています。
■岩下 事務長
「ご遺族の方たちの思いをつなげていくよう、展示をしていきたいです。家族はすごい悲しみがあったことと思いますが、悲しみを二度と繰り返してはなりません。」
戦争を知らない世代にも平和のバトンをつなぐ“物言わぬ語り部”。遺品を託した人たちの思いが私たちの胸に響きます。
※FBS福岡放送めんたいワイド2024年8月14日午後5時すぎ放送