飯塚繁雄さん20年救出活動 思いは息子へ
こう着状態が続く北朝鮮による拉致問題。今月、家族会の前代表・飯塚繁雄さんが、妹の田口八重子さんとの再会を果たせぬまま亡くなりました。飯塚さんの思いは20年活動を共にした『息子』へと引き継がれています。
飯塚耕一郎さん(44)「八重子さんと代表・飯塚繁雄を会わせられなかったことは、私がこの先死ぬまで一生心残りになることだなと思っています」
田口八重子さんの長男、飯塚耕一郎さん。耕一郎さんの育ての親・飯塚繁雄さんは今月18日、83歳で亡くなりました。
八重子さんが2人の幼い子供を残し、突然行方が分からなくなったのは1978年。当時1歳だった耕一郎さん。八重子さんの兄・繁雄さんに引き取られ、飯塚家の子供として育てられました。
耕一郎さんが母の存在を知ったのは21歳の時。パスポート取得のために取り寄せた戸籍謄本に「養子」の文字を見つけたのです。当時、繁雄さんが耕一郎さんを連れてきたすし店。この店で初めて事実が伝えられました。
飯塚繁雄さん「『お前の心配しているこの事実は確かだ。具体的には俺の妹の子なんだ』と、こっちも母ちゃんと覚悟して完全にうちの子として育てようと」
飯塚耕一郎さん「ありがたいなと思いましたね。元々上に実子が3人いる状態で私が入りましたから」
さらに母親が北朝鮮に拉致されたことも初めて知りました。
飯塚耕一郎さん「あんまりにも話が大きすぎるので、心の咀嚼(そしゃく)っていうのができなかったですね。数年くらいは」
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耕一郎さんが25歳の時、大きな動きがありました。日朝首脳会談で北朝鮮が八重子さんを含む日本人13人の拉致を認め謝罪したのです。
北朝鮮側からは“八重子さんは死亡した”と伝えられましたが、その説明には多くの矛盾点が。
妹の生存を信じ救出活動を続ける繁雄さん。27歳の時、耕一郎さんも八重子さんの長男と名乗り出ました。繁雄さんと二人三脚で取り組んできた救出活動。
繁雄さん「これが耕一郎です」
耕一郎さん「はじめまして」
金賢姫元死刑囚「抱いてもいいですか」
八重子さんが日本語を教えたとされる北朝鮮の元工作員・金賢姫元死刑囚と面会。「子供に会いたい」と北朝鮮で泣いていたという八重子さん。母との記憶がない耕一郎さんが“母の思い”に初めて触れた瞬間でした。
田口八重子さんの長男・飯塚耕一郎さん(当時32)「八重子さんとのお話とか胸がいっぱいになってしまって、短かったけど満足できるような会見だった」
しかし、それから目立った進展もなく、繁雄さんは徐々に体調を崩すことが増え、ここ数年は入退院を繰り返すようになりました。今月18日、妹との再会を果たせないまま亡くなりました。最後まで八重子さんの身を案じていたという繁雄さん。
飯塚耕一郎さん「この先、同じように生きて会えない家族がこれ以上増えることは許容できません」
繁雄さんの遺志を引き継ぎ救出活動を続けると表明した耕一郎さん。高齢化したほかの家族のためにも政府には急いで動いて欲しいと訴えました。
拉致被害者5人の帰国から来年で20年。日本政府は北朝鮮との待ったなしの交渉が求められています。