武器のない沖縄の象徴・首里城 沖縄の思い
今年10月、沖縄県の首里城で正殿など主要な建物が全焼した。それからおよそ2か月、後呂有紗アナウンサーがその現場に向かい、沖縄の思いを取材した。
◇◇◇
◆2か月前に火災…現在の首里城は
後呂アナ(10月31日)「速報です。きょう午前3時前、沖縄県の首里城の正殿が燃える火事があり、現在も延焼中です」
10月31日、首里城火災の第一報は、『Oha!4』の放送直前に入りました。あの日から約2か月、私は火災の現場を訪れました。
後呂アナ「きれいな赤瓦が焼け落ちて、崩れ落ちるように立っていますね」
火災の激しさを感じる現場。
後呂アナ「崩れる寸前のように大きくたわんで、衝撃的ですね」
この日会った地元の子どもは──
後呂アナ「学校でどんな話をした?」
浦添市の小学生「自分たちは変わらないで、元気でいようねって話になりました」
◆沖縄戦で燃えた首里城、琉球王国時代を生きたおばあさんは…
私はこの火災を機に、改めて首里城が沖縄にとってどんなものなのか知りたいと感じました。そこで訪ねたのが、沖縄の歴史を語り継ぐ、吉嶺全一さん(87)。吉嶺さんは、戦前から首里城を近くで見てきた貴重な存在です。
吉嶺さん「私が通った第一国民学校は、首里城の敷地内にあったんです」
後呂アナ「首里城の中に?」
吉嶺さん「雨の場合は体育館がないから、首里城を体育館として、遊び場として使っていました」
かつて首里城は1429年から450年ほどの間、琉球王国の政治や文化の中心地で、明治時代、その役目を終えました。
その後、吉嶺さんが小学校6年生の時、沖縄戦で首里城は焼失してしまいました。
後呂アナ「戦争中、首里城が燃えてしまった時は、どういった状況で見ていた?」
吉嶺さん「昼間は爆撃が激しかったので、首里城から約300メートル離れた壕(ごう)の中にいた。夕方になると攻撃がやんだので出たら、わぁ~っと燃えていた」
誰よりも悲しんだのは、琉球王国時代を生きた、吉嶺さんのおばあさんだったといいます。
吉嶺さん「(首里城が)燃えるのを見て『ウグシク(=首里城)が燃えてる』と合掌していましたね、泣いて。でも自分の家が焼けてても(おばあさんは)なんとも思わなかった。『戦争だから焼けるのは当然だ』と思ったんでしょうね」
後呂アナ「自分の家よりも大切?」
吉嶺さん「(首里城は)生きがいだったんでしょうね」
◆再び燃えた『武器のない沖縄の象徴』復元への思い
その後、1992年、首里城はようやく復元。しかし今年再び、沖縄は悲しみに包まれました。それは、沖縄戦を思い出させる光景だったといいます。
吉嶺さん「(沖縄戦の時と)風向きも同じだった。火の粉がボンボン落ちて、同じ格好だった。夢みたいだった」
後呂アナ「沖縄にとって、これからの首里城はどういった存在になってほしい?」
吉嶺さん「昔(戦前)どおりに復元してもらいたい。沖縄は1429年(約600年前)に、ひとりの王様がこの南西諸島を統一して琉球王国をつくって、その後は武器も全部取り上げて戦争がなかった。(首里城は)『武器のない沖縄の象徴』」
後呂アナ「平和の象徴としての役割も地元の人たちにあったというのは、全然、知らないで生きていました」
吉嶺さん「首里城を復元して、平和の象徴として使いたい」