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【沖縄戦と首里城】古堅実吉さん証言 前編

2020年8月25日 18:14
【沖縄戦と首里城】古堅実吉さん証言 前編

去年10月、火災に見舞われた沖縄の首里城。75年前の沖縄戦でも焼失し、再建まで半世紀近くかかったこともあり、去年の火災は沖縄の人々に大きな衝撃を与えた。

その地下に巨大な地下壕(ごう)が存在する。この壕は、沖縄戦で、アメリカ軍と対峙(たいじ)した旧日本軍の第32軍が、一時、司令部を置いた場所で、一帯は激戦で焼け野原となり首里城も焼失した。

戦後は、崩落の危険があることなどから立ち入りが禁止されていましたが、去年10月の首里城火災をきっかけに、戦争の記憶を次世代に伝える場所として壕の保存と公開を求める声がいまあがっている。

75年前、いったい何があったのか。私たちは首里城の沖縄戦を知る方々から数々の証言を伺った。戦争を知らない世代にいま伝えたい、知られざる地下壕に秘められた戦争の歴史とは。


    ◇

古堅実吉さん、91歳。
教員を養成する師範学校の学生だった古堅さんは、1年生を終える間際で「鉄血勤皇隊」に召集された。戦場で多くの仲間や恩師を失う。


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■教師夢見て入学も…授業は消え戦争準備の日々

古堅さんが教師を夢見て師範学校に入学した1944年。夏休みを過ぎるとほぼ授業はなくなり、戦争の準備に駆り出されたというーー。

【古堅実吉さん】
僕は戦前、今の県立芸大の場所にあった「沖縄師範学校」という教員養成の専門学校に1944年4月に入学しました。
片田舎に生まれて首里・那覇などの雰囲気も味わったことの無い田舎者ですから、師範学校に入ってみんなと一緒に勉強するのが楽しくてね。
いつも喜びにあふれていたが、夏休みうちに帰って、2学期の始め戻ってみたら、学校で授業があったのは最初の1週間だけで、2週目からは時間割と何も関係ないことになって、飛行場行って土運びやれ、高射砲陣地行け、壕を掘れ。そういう作業にこき使われるような事態になってしまいました。

10月10日には沖縄中が大空襲を受けて、那覇市は9割丸焼けにされてしまいました。
そういう推移の中で、1945年始め頃からはB-24という4発の米軍爆撃機がほとんど毎日沖縄にやってきて、ちょっとした車や船など動きがあるものをずっと銃撃して回る、そういう雰囲気になっていました。

2月に情勢が緊迫したので1年生だけは親元に帰れと。緊急に家に帰されて、私は沖縄本島の北端の国頭村ってところに生まれて、親兄弟もいる。
そこに帰っていたら、学校が「情勢が安定したので戻ってこい。帰校せよ」という命令が3月14日に届いたんです。

それで16日に家を出て、その頃はバスもないですから、最初から歩いて首里・那覇まで行く覚悟が必要な時代になっていました。
「帰校せよ」という命令を受けて、学校に戻ってきたのが、1週間ずっと歩き通して3月22日の晩の夜9時頃。寄宿舎にやっとつきました。
1週間ぶりに暖かい布団に入って、ぐっすり寝て明けてみたら、朝早くから米軍の全県的な大空襲が展開され、3月23日の沖縄戦の始まりであったわけです。


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■召集 戦闘帽配られ…学生から兵士へ

そして沖縄戦の始まりとともに、県内すべての中等学校の生徒たちが戦場に動員される。
14歳から16歳の男子学徒で編成された「鉄血勤皇隊」、古堅さんはその1人だったーー。


【古堅実吉さん】
3月23日から全県的な大空襲が始まりました。その1週間後に軍司令部からの召集令状が、集会の中でみんなに示されて、「軍司令部直属とされる」という知らせを受けたわけです。

それまで軍人でもない最下級生、15歳ですからね。沖縄戦のさなかに軍司令部直属だといって、あらゆる軍事的な活動に、平気で使われることなど考えたこともなかったですよ。それが3月31日。
(首里城敷地内の)留魂壕の前に集められて、「1年生は帰れ」と言われることもないままに校長以下全校生徒ですからね。
本部隊、野戦築城隊、切り込み隊、情報宣伝隊、大きくその4つに編成して、直属の命令元の任務を組織立てて頑張っていくという状況になっていましたね。


    ◇

それは米軍が沖縄本島に上陸する前日でもあった。そしてこの日の夕方、首里の高台から恐ろしい光景を目撃するーー。


【古堅実吉さん】
驚きました。文字通り海面が(米軍の)船で埋まって見えないんですよ、海が。
翌日与えられたのが半袖半ズボンカーキの戦闘帽。「学生服は脱ぎなさい、それに着替えなさい」と指図されて翌日から学生でなくなったわけ。


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■砲弾直撃…目の前で学友失う

「鉄血勤皇隊」としての活動を始めた古堅さんを待っていたのは、砲弾が飛び交う中での過酷な任務だったというーー。

【古堅実吉さん】
最初は鉄血勤皇師範隊の中のいわゆる数人の先生と何人かの生徒で組織された「本部隊」。その本部隊の中に自活班というのが置かれた。
(任務は)食糧確保、野菜その他、軍から降りてくるのは玄米しかないので、それでは生きられんと言って、畑に行って野菜を取ってきたり民家を回って必要な食料を買いあさるとかそういう任務までも出して…しかし1週間も続きませんでした。

撃ち込まれる弾の激しさの故に、死にに命を捨てるために歩き回ってるようなもんじゃないかということになって、その食糧確保の任務を解かれて、班長の先生1人に生徒20人だったが、今度任務換えされてつけられたのが、司令部壕の入り口、出口のすぐ横にある発電施設があって、それを冷却するための水を運ぶ作業を12時間交替で朝晩2回。

5月4日に西銘武信君という同級生と2人で桶で水を運んでドラム缶いっぱいになったので「暫時休憩だな」と冗談めいたやりとりをしながら発電機の置かれてるところへ1メートルくらい下がった。僕はドラム缶のそばからそこに降りたとたんでした。西銘武信君はまだそのドラム缶のそばに立っていたんでしょうね。弾が飛んできて爆発して。パッと光が放って彼に当たってしまったんですね。首の半分と肩の半分がえぐられて、一言一声も無くぶっ倒れて即死。


(後編へ続く)