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【沖縄戦と首里城】古堅実吉さん証言 後編

2020年8月25日 18:15
【沖縄戦と首里城】古堅実吉さん証言 後編

去年10月、火災に見舞われた沖縄の首里城。75年前の沖縄戦でも焼失し、再建まで半世紀近くかかったこともあり、去年の火災は沖縄の人々に大きな衝撃を与えた。

その地下に巨大な地下壕(ごう)が存在する。この壕は、沖縄戦で、アメリカ軍と対峙(たいじ)した旧日本軍の第32軍が、一時、司令部を置いた場所で、一帯は激戦で焼け野原となり首里城も焼失した。

戦後は、崩落の危険があることなどから立ち入りが禁止されていましたが、去年10月の首里城火災をきっかけに、戦争の記憶を次世代に伝える場所として壕の保存と公開を求める声がいまあがっている。

75年前、いったい何があったのか。私たちは首里城の沖縄戦を知る方々から数々の証言を伺った。戦争を知らない世代にいま伝えたい、知られざる地下壕に秘められた戦争の歴史とは。


    ◇

古堅実吉さん、91歳。
教員を養成する師範学校の学生だった古堅さんは、1年生を終える間際で「鉄血勤皇隊」に召集された。戦場で多くの仲間や恩師を失う。

(前編から続く)

    ◇

首里でさまざまな任務についた古堅さん、第32軍司令部壕内の様子もわずかな記憶が残っているというーー。


【古堅実吉さん】
全体としてずっと雨水みたいなものが落ちて、少し緩い、流れがあった。その道に寝台みたいな形で休む仕組みなどもあったなと。
我々の同じ作業班の中では、壕の中に落ちてくる水をポンプで・・・どういう機械かよくわからないが、こしてきれいな水になる仕組みになっていくのがある。井戸からドラム缶に入れるのとは別に、炊いて使う食料に使う水をつくる作業もさせられていたな。


    ◇

■「木っ端みじん」首里の惨状は…

しかし日本軍の抵抗も及ばず、司令部は首里を離れ南部への撤退を決断する。古堅さんが目にしていたのは、破壊され尽くした首里の街だったーー。


【古堅実吉さん】
その任務は5月27日に司令部からの命令で、司令部も南部の方に撤退。師範隊も直属であったので、司令部の指示の通りに5月27日南部の摩文仁の方に移動し、首里を去ることになりました。
そのころすでに首里は司令部壕があったのが主な要因だと思うが、沖縄戦で最大の砲爆撃を繰り返され、木っ端みじんにされたところで、我々が首里を去った頃は家屋らしい家屋のかけらでも見つかることができない。
木にまともな葉っぱをつけている木を見つけることができない。言葉の通りですよ、木っ端みじん。首里はそういう状況になっていました。


    ◇

古堅さんのいた師範隊は連日の雨でぬかるんだ足場の悪い道を、食料や弾薬が入った重い荷物を担がされ、南部へ向かった。
道なき道を隊列からはぐれないよう転がりながらも必死に歩き続ける道の途中で見た、両足を失い腕と胴体だけで移動する負傷兵や死んだ母親に乳を求めて這いまわる赤ちゃんの姿が忘れられないという。

弾雨の中をくぐり抜けるように歩き続け、5月末には摩文仁にたどりついた。しかし米軍の包囲網が狭まる中、岩陰に潜んだが、食料も確保できない状況に陥った。


■「生き抜け」訓示の校長帰らぬ人に

6月18日、古堅さんのいた師範隊に解散命令が下される。そのとき、校長から出たのは古堅さんには予想外の言葉だったというーー。

【古堅実吉さん】
(校長は)左手に亡くなった人たちの名簿を掲げて、「すでに110何人が犠牲になった。こうなると思えばね、軍命に従うべくもなかった。君たちは絶対死んじゃいかん。これからの沖縄を背負って立つのは君たちだ」と、そういう趣旨のことをおっしゃって、「絶対に死んじゃいかんぞ。生き抜きなさい」と校長が力説した。

我々の生きた時代は、小学校に入った時から、徹底した軍事教育を受け、「天皇陛下バンザイ」の教育を受けていますからね。
外に向かって「自分は是非生きたい、死にたくない」と表明するのは弱虫だと言って殴られるような時代ですからね。
まともに意味が理解できないわけ。しかし学校の最高責任者である校長がね「死ななくていい、天皇陛下万歳を叫んで死ぬなどということをしなくていい」とおっしゃる。
生き残る許しを得たような、気持ちになった。「よし。生き抜いてやんばるへ。国頭へ」と、生き抜こうという力が生まれましたね。
そういうふうに別れて、校長以下3人は我々より2時間ほど前に出発したが、翌々日、海岸で弾にやられて直撃で、弾に当たって体の一部さえ残ってなかった。
丸ごと吹き飛んで。校長先生が健在であれば、「我々に死ぬな、生き抜くんだ」と強く訓示された時のお気持ちがどんなものであったか聞いてみたかった…生き残った者としてそういう思いを何回もしたことがありますね。


    ◇

■首里陥落で降伏していれば…

包囲網の突破を試みた古堅さんたち。しかし6月22日、米軍の捕虜となる。
一方、古堅さんの学校では、鉄血勤皇隊に動員された461人のうち288人が命を落とす結果に。
南部への撤退で沖縄戦の犠牲者が飛躍的に増えたことから、古堅さんには首里陥落で日本軍が降伏していれば…との思いが強く残っているーー。


【古堅実吉さん】
そういう思いは今でも非常に強いですよ。首里に構えていてああいう地獄の沙汰と言うしかないような戦に巻き込んで、5月27日に首里の司令部壕を放棄していったわけでしょ。そのときに首里を放棄して摩文仁に司令部を構えるということをしないで、沖縄戦は降伏しますという段取りをとっていたら、どれだけの人の命が犠牲にされずに助かったかなと。


    ◇

いま、首里城地下の「第32軍司令部壕」を保存しようという動きが出ていることについて考えを聞いたーー。

【古堅実吉さん】
沖縄戦が終わって75年を迎えてますね。
75年前の、地獄の沖縄戦を演じた拠点が、この司令部壕であったわけです。戦争の道につながる一切のものを二度と決して許さないためにも、この司令部壕跡を長く保存して、反戦平和の運動に役立てていくと。これが一番大事な視点ではないかと。
私はそういう立場から、軍司令部壕の跡をしっかりと管理し、公開もできるように。「しまった。あの時そうしておけば良かった」などどいう後悔につながるようなことが絶対にないようにね。取り扱ってほしいと、これが私の願いであり確信です。

多少の安全の面からの難しさがあり、それなりの必要な経費が伴わないという、そういう面などがいろいろあるらしく、耳にもしています。
しかし問題は「ああそうか。それであれば仕方ないな」と、そういうことであきらめてしまうのか。安全上の問題や必要な経費など多少の困難があろうと、そういうものを乗り越えて保存と公開の方向に向けて、やるべき大事な意義があるんだということで、きちっと必要な手をうってやっていくか。
どっちを選択するか、それを将来の人々からも問われているということだと思います。