「よく焼け残ってくれた」遺品返り募る無念
1996年9月9日、東京・葛飾区の自宅で上智大学4年の小林順子さん(当時21)が何者かに刃物で刺されて殺害され、自宅を放火された。あれから24年。事件は未解決のままだが、ことし遺族の元に警視庁から遺品が返却された。初めて見た亡き娘の遺品を前に父はこうつぶやいた。
「よく焼け残ってくれた」
■24年ぶり返ってきた遺品
順子さんの父、賢二さん。74歳。ことし7月、警視庁から一冊のアルバムが返却された。そこに納められていたのは400枚近くの写真。アルバムをめくると海外旅行ですました様子を見せたり、友人とピースサインで笑顔を投げかけたりする順子さんがそこにいた。
実は、これらの写真は現場の焼け跡から回収された順子さんのネガフィルムを警視庁がプリントしたもの。
「遺族にとってもなにが残っているのかまったくわからない」
大学時代の飲み会やサークルで楽しむ様子の写真もあり、賢二さんも初めて見る順子さんの姿ばかりだったという。遺品は、「捜査に支障がなくなった」としてその一部が警視庁から返却された。
■「よく焼け残ってくれた」
返却されたのは写真だけではない。高校時代の語学研修の感想文や、大学のサークル活動で英語を指導していた中学生からの寄せ書きなど様々だ。
そのなかに、順子さん直筆のリポートもあった。端が黒く焼け焦げた原稿用紙。事件の凄惨さを物語るが、整然と並んだ文字はいまもはっきりと読むことができる。
タイトルは「日米経済摩擦について」。
原稿用紙8枚にわたって当時問題となっていた日米経済摩擦の解決のための考察が書かれていた。
「私に似て達筆」
「よく焼け残ってくれた」
賢二さんはそうしみじみと語るが、原稿用紙を見るたびに夢を絶たれた娘の無念さもあらためて思い起こされるという。
順子さんは、大学では英語学科に在籍し、語学力を生かしてジャーナリストになることを志していた。そして念願だったアメリカ留学に旅立つ2日前に事件は起きた。
「彼女の夢が叶えられず本当に悔しくてならない」
そう賢二さんは振り返る。
■風化させないために・・・
静かな住宅街の中にある事件現場はいまは消防団の格納庫になっている。凄惨な事件がここで起きたとはにわかに信じられない。
当初は「捕まった犯人を連れてこようかと思った」と、焼け跡をそのままにしておくつもりだった賢二さん。しかし、「瓦が落ちて誰かがケガをするかもしれない」と思い、翌年には現場を取り壊した。
その後、長く空き地となっていた現場。10年前、世論の後押しを受けて殺人事件などの公訴時効が撤廃された。
「世の中に恩返ししなければ」
そんな思いに駆られ、土地を地元の消防団に提供する決意をしたという。
そこにはいま、小さな地蔵が佇む。賢二さんが自ら建てた地蔵には、「事件が風化しないように」との思いが込められている。
■取材中、情報提供が
取材中、こんな一幕があった。
事件現場を訪れた賢二さんに突然、中年の女性が話しかけた。聞けば24年前の事件当日、現場を見つめる不審な男の姿を目撃したのだという。
ニュースを見て思い当たる節があって怖くなり、賢二さんに伝えたい一心で現場を訪れたという女性。
震えながら話す女性に賢二さんは「貴重な情報をありがとうございます」と礼を言い、すぐに警察に話すよう伝えた。警視庁によると、ことし、こうした情報提供は24件寄せられている。
「まだまだ埋没している情報が必ずある」賢二さんはそう話し、24年たった今も情報提供を呼びかけ続ける意義に触れた。
■「決してあきらめない」
賢二さんはこれまで、命日には事件現場での献花と情報提供を求めるチラシ配りを行ってきた。しかし、ことしは新型コロナウイルスの影響で献花は中止。「それでも、地元の有志が『駅での声かけだけでもやろう』と言ってくれたことが温かかった」と振り返る。
9日、その姿は現場に近い京成柴又駅にあった。夕方、帰宅する人たちに向け、「お勤めご苦労さまでした」と声をかけながら、賢二さんは些細なことでも、と情報提供を呼びかけた。
「決してあきらめない」
その思いが、この日も賢二さんを動かしていた。
■延べ10万人投入も…
警視庁によると、8月末時点でのべ10万人を超える捜査員が 事件捜査に関わってきたという。
警視庁の捜査幹部は「今も捜査員は今日こそ犯人を捕まえようと強い信念であたっている」と話す。また、捜査員の原動力は寄せられる情報だとし、ささいな情報でも提供してほしいと呼びかけている。
情報提供は亀有署特別捜査本部まで
03-3607-9051