レジェンドサーファー 聖火つなぐ思いとは
オリンピック聖火リレーの点火セレモニーに“サーフィン界のレジェンド”が参加しました。聖火をつなぐ、その思いとは。
■“サーフィン界のレジェンド”阿出川輝雄さん(78)。はじまりは、前回の東京五輪が開かれた、1964年。
トーチを掲げ、記念撮影をする白髪の男性が阿出川輝雄さん78歳。“サーフィン界のレジェンド”と呼ばれる彼は、足を引きずりながらステージにたっていた。なぜ、彼はレジェンドと呼ばれているのか――。
千葉県・いすみ市で家族と暮らす、阿出川さん。自宅のソファに座りながら当時を思い出しながら語ってくれた。
きっかけは、57年前の東京五輪が開かれた、1964年にさかのぼるという。
■アメリカで見たサーフィン文化に魅了された60年代
阿出川さん「以前(1964年)の東京オリンピックの時に憧れだったアメリカに行ったんですね。1ドル360円ぐらいの時代で、その頃はベトナム戦争がはじまるころでしたね」
500ドルを握りしめ、アメリカに渡った阿出川さん。しかし、ある日見た、アメリカの海の風景が今後の人生を変えたという。
阿出川さん「庭師の仕事をやりながらサンタモニカの近くに住んでいて、海を見に行ったらサーフィンがすごくてね。すごい文化だなと思いましたね。海でサーフィンしながら遊んでいるわけ。その姿が何とも言えないくらいカッコいいんですよ。アメリカ人が考えたサーフィンというのはすごいなと」
アメリカのビーチの光景に魅了された阿出川さん。知人のサーフボード工場で作り方を学んだ。
阿出川さん「もともとは家業のデザインの勉強をするはずが、サーフィンを見てからコロっと変わっちゃった。そこからサーフボードの作り方を覚えていった」
■百貨店にサーフボードが売られた時代
翌年、1965年に帰国。当時の日本のビーチにサーファーはほとんどいなかった。
阿出川さん「あの時代のサーファーは湘南と鴨川にわずかにいた程度。サーフボードがないから、米軍の人が持っているサーフボードを借りてやるしかなかったね」
阿出川さんは、国内初のサーフボード工場をつくり、サーフボードの製作に励んでいった。
阿出川さん「最初はボードの材料がなくて、すぐにはうまくいかなかったね」
その後、知人たちの協力もあり、試行錯誤を繰り返しながら、ようやくサーフボードが完成。
阿出川さん「百貨店に同級生がいてね。相談したら百貨店のショーウインドーに全部飾ってくれた。サーフボードが売れるようになって、さらに注文が入りました」
その後、阿出川さんの後を追うように、各地でサーフショップが続々とオープン。のちの第1次、第2次サーフィンブームが訪れる。
阿出川さん「サーフィン文化が広がっていくのを実感できてうれしかった」
“サーフィン界のパイオニア”とも呼ばれる阿出川さん。
■脳内出血に倒れ右半身がマヒした阿出川さん。障害者サーフィンの普及活動へ
しかし18年前、突然病が襲った。
阿出川さん「重いものを持った瞬間に(脳の血管が)プツっと」
原因は、脳内出血。このとき60歳の阿出川さんは、4か月の入院生活を強いられた。
阿出川さん「自分で受け止めていたからどうってことはなかった。リハビリ続ければ治ると思っていた」
その後も、リハビリを続けたが、言語障害や右半身のマヒが残った。
2018年、阿出川さんは自身の経験がきっかけとなり、日本障害者サーフィン協会を設立。「障害者サーフィンの普及」と「障害者サーフィン競技」の発展を図っていきたいと話す。
阿出川さん「障害者でもサーフィンができる環境をつくっていきたい。障害があってもがんばっている人を応援していきたいですね」
■サーフィン界のレジェンドの願い、「子どもたちに夢を」
この日、千葉で開かれた東京オリンピックの点火セレモニーに参加した阿出川さん。参加後、こう語ってくれた。
阿出川さん「(当初の予定だった)実際に海沿いを走って、子どもたちに見せたかったけれどね。コロナ禍で東京五輪の開催の賛否もあるが、五輪初開催のサーフィンを見て、子どもたちに夢をみせてあげたいね」
そしてサーフィン界のレジェンドは、今後について笑顔でこう語った。
阿出川さん「たまにでいいから、これからも海に入りたいね」
波は、みんなのもの。生涯現役を貫くという。