【解説】「東京・平壌の連絡事務所には強く反対」焦る拉致被害者家族が譲れないワケ…「親世代」は横田早紀江さん1人に

■96歳まで闘い続けた「父」有本明弘さん…娘との再会果たせぬまま
「諦めきれへんさかい、みんな運動しとるんやで」(拉致被害者 有本恵子さんの父・明弘さん)
2月15日に96歳で亡くなった有本明弘さん。その関西弁の独特の語り口は、いつも“言いたいことは、とことん言うてやるんや“という熱を帯びていた。
恵子さんが拉致されたのは、1983年のこと。ロンドンに語学留学中“帰国が遅くなる”との手紙が届いたのを最後に行方がわからなくなっていたのだ。
北朝鮮に拉致されたとわかったのは、失踪から5年後。同じく拉致被害者の石岡亨さんから家族に届いた手紙に、恵子さんらとともに北朝鮮・平壌で暮らしているとの内容が書かれていたのだ。手紙には、恵子さんの写真のほか、孫娘とみられる赤ちゃんの写真も同封されていた。
明弘さんと妻・嘉代子さんは、その手紙のコピーを手に、神戸から上京。外務省や警察庁、何人もの国会議員のもとを訪ね歩き、娘の救出を訴えた。
「まさか北朝鮮が日本人を拉致するなんて…」と、多くの国民が拉致を信じておらず、拉致事件は“拉致疑惑”とされていた頃。訴えても、まともに取り合ってもらえないことも多かったという。
しかし、いち早く活動を始めた明弘さんと嘉代子さんは、先駆者となり、家族らによる救出活動のうねりをつくった。
2002年の日朝首脳会談で、北朝鮮は「恵子さんは、すでに死亡している」と説明したが、後に北朝鮮の情報には誤りがあることが判明。有本夫妻は諦めることなく、恵子さんら被害者を救うための活動を懸命に続けてきた。
しかし、進展しない時間は長すぎた。
2020年2月に明弘さんの妻・嘉代子さんが94歳で亡くなり、6月には横田めぐみさんの父・滋さんが87歳でこの世を去った。
それでも諦めないと、車椅子に身を預けながら、何度も神戸から上京。集会に参加し、首相との面会にも駆けつけ、訴え続けた。