「まったくの想定外」強制捜査2日前の凶行「知らぬ世代多く」警察の苦悩~シリーズ「オウム30年」

地下鉄サリン事件をはじめ、数々の凶悪事件を起こしたオウム真理教。山梨県旧上九一色村の教団施設への強制捜査から3月で30年を迎える中、当時の映像と30年後の証言で事件について考えるシリーズをお届けします。3回目は強制捜査を指揮した元警視総監の証言と、元県警幹部が抱き続けた思いです。
井上幸彦さん(87)。オウム真理教への強制捜査を指揮した、当時の警視総監です。
井上さんが警視庁トップに就任した1994年9月。
すでに教団は坂本弁護士一家殺害事件や松本サリン事件などの凶悪事件を起こしていました。
しかし、オウムに関する引き継ぎはなかったといいます。
元警視総監 井上幸彦さん(87)
「事件が起きていて会議で報告があるけれども、その時にオウムについて『あいつら、あの団体が怪しいんだ』というような状況は把握できていない」
元警視総監 井上幸彦さん(87)
「私が総監になった時も前任者から『これからオウムと戦うことになるよ』というようなものはなかった。宗教に対する特別な見方があって、その宗教団体が殺人事件まで起こす、テロ行為を起こすような状況は全く想定外だった」
松本サリン事件の長野県警や地元の山梨県警など、警察が教団の関与が疑われる事件を捜査していなかったわけではありません。しかし、いずれの事件も決め手に欠けていました。
そんな中、1995年2月に目黒公証役場事務長の監禁致死事件が発生。警視庁はこの事件で初めてオウムの関与を明確に認識し、強制捜査に乗り出すことを決めます。
“Xデー”は3月22日。しかし、着手の2日前…
死者14人、負傷者6000人以上。首都・東京で起きた未曾有のテロ事件は、戦後日本の安全神話を大きく揺るがしました。
元警視総監 井上幸彦さん(87)
「総監室に入って情報を取ってもなかなかはっきりしたものが出てこない、何が起きたか」
元警視総監 井上幸彦さん(87)
「ただ霞が関だけではなくてあちらこちらの駅に今、負傷者が外に出されていますという情報があって」
元警視総監 井上幸彦さん(87)
「何が使われたか分からないけど、これはオウムだなと。やられたなという気はした」
先手を打たれたー。直後の会議ではまだ、強制捜査への「慎重論」もあったといいます。しかし…
元警視総監 井上幸彦さん(87)
「我々が攻めていって彼らを追い込んでいかなきゃこの戦いは勝てない。私はそれを戦いという言葉を使ったけど、この戦いは捜査という手段をもって戦わなければいけない。それには彼らを追い込まなければだめなんだ」
元警視総監 井上幸彦さん(87)
「同じような事件を起こさせちゃいけない、これが僕の責任であると思って、予定通りの22日に立ち上がった」
そして迎えた、3月22日。
記者
「午前6時を過ぎたところです。上九一色村のオウムの施設の近くの道路なんですが、機動隊の車が50台くらい集結しています。間もなく強制捜査が始まるようです」
記者
「中に入るものとみられます」
旧上九一色村の第6サティアンの隠し部屋で現金960万円の札束と寝袋を抱えた教祖の身柄が拘束されたのは、強制捜査の着手から約2か月後のことでした。
井上さんはその後、警察庁長官狙撃事件の責任を取り、捜査の一線を退きました。あれから30年が経ち、井上さんが懸念するのは事件の風化です。
元警視総監 井上幸彦さん(87)
「社会というのは本来的に持っている自衛能力はある。それには常に情報を与えて物事を忘れさせない、風化させないことが大事だと思う。語り継がれなくなると警戒感が薄れてしまう。これが怖い」
一方、教団への警察の対応が十分ではなかったと悔やみ続けた、現場の捜査員もいます。去年6月に亡くなった山梨県警の元刑事部長、若尾吉彦さん。
当時は科学警察研究所に出向していて、強制捜査では調査官としてサリンが製造されていた第7サティアンに突入しました。
元山梨県警刑事部長 若尾吉彦さん(2015年取材)
「考えられるところはすべて脱脂綿等で付着物を採取して、その現場検証が地下鉄サリン事件のサリン製造を裏付けるための重要な部分を占めたことは間違いない」
早く捜査していれば事件は防げたかもしれない。そして、もし次があるとするならば、自分たちは防ぐことができるだろうか?
元山梨県警刑事部長 若尾吉彦さん(2015年取材)
「あらゆる関係機関と連携を図る中で、早め早めの手を打ってもらいたい。同じオウムの事件を二度と繰り返させるなと、後輩たちには訴えたい」
若尾さんは生前、後輩の警察官を前にオウム事件での自らの経験や思いを伝える活動をしていました。
その様子が映像に残っています。
元山梨県警刑事部長 若尾吉彦さん(2018年取材)
「オウム事件というものは、とてつもない事件。山梨県警の警察官になった人は絶対に忘れてはいけない事件」
「事件を知らない世代が多くなり“風化”しようとしている」。亡くなる前に若尾さんが遺した手記に書かれていた言葉です。
それは、当時を知る関係者が等しく抱いている思いでもあります。