×

「人も自然も同じ目線で」 山形・西川町の自然を題材に詩を残した丸山薫 その思いを今も伝え続ける

2024年10月7日 17:42
「人も自然も同じ目線で」 山形・西川町の自然を題材に詩を残した丸山薫 その思いを今も伝え続ける

第2次世界大戦中、東京から山形県西川町に疎開し、自然や四季折々の風景を題材にした詩を残した、詩人・丸山薫。地元住民は岩根沢を愛した丸山の詩や思いを伝え続けています。

西川町岩根沢。小高い丘の上に建つのが、丸山薫記念館です。ここに、詩人・丸山薫の生涯が展示されています。丸山は1945年の東京大空襲で被災し、知人の紹介で46歳の時、当時の西山村、今の岩根沢に疎開しました。
岩根沢では小学校の代用教員として働きながら詩を書く生活を送ったといいます。

荒木咲子さん「丸山の詩の良さは人を平らに見てる。人も自然もみんな同じ目線で見てたんだなと思う」
飯野哲子さん「自然の美しさと住む人たちの純朴さと力強さ、生きている姿が作品に出ている」

岩根沢で開催されている丸山の詩を参加者が朗読するツアーのガイド飯野哲子さん(80)と荒木咲子さん(72)。

ガイドはみな地元に住む丸山の詩のファンたちです。

荒木咲子さん「丸山薫の詩に憧れて来る人に紹介できるところが残っていればいいと思う。一緒に探すというか」

疎開中の丸山は、小学校近くに間借りして住んでいました。その建物は現在も残っています。当時の写真です。元々は蚕を育てる蚕室に丸山は妻、三四子さんと暮らしていました。
8畳一間の部屋には、当時と変わらない柱や天井が残っています。風が強く吹く場所だったため、丸山は「風鳴荘」と呼んでいたそうです。

飯野さん朗読「『高い村』。私は山上の高い村に住み、朝ごとに太陽は見はるかす平原のかなた、雪をかぶった低い丘陵から昇り夢を貪る私の臥床を下から照らす、鳥達は深い谷間の風に乗って喘ぐように 一羽 一羽この小舎の幹に辿りつくが私はいつもかれらの背を俯瞰していてかつてその腹を仰いだことがない、この高い村に住んでから私はみずからの運命の日に日に非なるを瞶めている」

この詩は、丸山がこの部屋から見た山々などの景色を詠んだものです。

荒木さん、飯野さん、古沢さん「丸山先生も見てたんだと思って感慨深いものがあるよね」「きっと雄大な景色をみてたのでしょうか」

丸山は3年間岩根沢で生活しました。都会暮らしに慣れていた丸山にとって、山に囲まれ、雪が多いこの地の暮らしは、慣れないことが多かったそうです。

荒木咲子さん「雪の道を歩くことは、私たちには普通のこと。丸山先生は、歩くのが下手だったんですって。昔って歩くところが決まってて、その上に雪が降るので、ちょっとでも足を踏み外すとぬかるみにはまる。そこは難儀したみたい」

丸山はこの地で4冊の詩集を完成させました。

鳥達「『鳥達』杉の森をいくまがり嶮しい傾斜の小径づたいに谷底の聚落におりていくたびに家々の散在る崖ぶちから木洩れ陽のする梢の枝間から、または、流れを跨いでむこうの山襞から、ぼうと不意に山鳩の啼き真似をして唖々とひとこえ鴉のように私を呼ぶこえがきこえる…」

丸山が山の下を目指して歩いていると、教え子が鳥の真似をしながらついてくる様子を詠んだ詩。丸山は、教え子や村の青年たちにとても慕われていたといいます。

荒木咲子さん「子どもたちがよく丸山の家に寄っていたとか。ごちそうになっていたとか。伝え聞いてて慕われていたと思う」

丸山が岩根沢を去った後の1972年。教え子や村人たちの強い要望で、旧岩根沢小学校の校庭に詩碑が建てられました。除幕式には丸山も出席し、多くの村人が丸山へ感謝の気持ちを伝えました。
この2年後、丸山は脳血栓のため、75歳で亡くなりました。
1989年、岩根沢に、妻の三四子さんが寄贈した丸山の遺品を集めた記念館が建てられました。丸山と親交がある俳人や歌人とやりとりをしたはがきや丸山の着物など多くの遺品が残されています。

荒木さん 飯野さん「足袋が27センチ」結構大きいですね「着物からすると、身長も180センチぐらいあったって話」

9月28日、飯野さんらが中心となって、丸山がたどった道や、詩に登場する場所を参加者が散策する月に一度のイベントが開催されました。

飯野さん「これは丸山が石碑のためだけに書いた詩だそうです。どこの本にも載っていない」「当時の人たちがいなくなったから私たちは半分想像、半分本物でやっている」
荒木咲子さん「やっぱりみんなに紹介したい。こんなところあるよって岩根沢にいるものとして、地元住民として引き継いでいきたい」

岩根沢の自然と人を愛して多くの詩を残した丸山薫。その詩を愛する地元の人たちが今、丸山の詩や思いを伝えています。

最終更新日:2024年10月9日 10:32
    山形放送のニュース