DeNA守護神・山崎康晃 最愛の母と交わしたある言葉 “夢のメジャー”ではなく残留を決めたワケとは
これまで毎年契約更改の場でメジャー挑戦を口にしてきた山崎投手。それが一転、このオフにチームと6年の長期契約を結びました。11月に行われたDeNAファン感謝デーで「来年、この横浜スタジアムでプレーすることを決めました!」と残留宣言。
ファンから大きな拍手が送られる中、「そこには、あの…家族の…」と涙ぐみ、言葉を詰まらせる山崎投手の姿がありました。
なぜ“夢のメジャー”ではなく、DeNA残留を決めたのか。そこには山崎投手の野球人生を支え続けた母・べリアさんとの約束がありました。
■幼少期の母・べリアさんとの思い出
小学3年生のときに両親が離婚、女手ひとつで育ててくれたフィリピン出身の母・べリアさんは昼夜問わず家族のために働き続けていたといいます。
「当時(幼少期)はお母さんとご飯を食べた記憶がないんですよね。500円玉がぽつんと置いてあるのも見てました。誕生日でもらった、おもちゃ屋で売っているような安いグラブをずっと使っていました」
家計が苦しい中でも、野球を続けさせてくれた母・ベリアさん。そんな母へ、野球の名門・帝京高校へ入学する際、一通の手紙を送り、ある約束を交わしました。
「今は、お金とか大変だと思うけど絶対プロ野球選手になってお母さんを幸せにするから。5000万円稼いで、家をプレゼントする」
■母との約束、プロ入りを実現
その約束通り、2014年にドラフト1位で亜細亜大学からDeNAに入団した山崎投手。1年目から守護神として起用されると、プロ2試合目の広島戦。1点リードの9回を無失点に抑えプロ初セーブをマーク。ヒーローインタビューではウイニングボールを「お母さんにプレゼントしたい」と笑顔で話しました。
この年、新人最多セーブ記録(37セーブ)を樹立する活躍を見せると18年、19年には最多セーブのタイトルも獲得。球界を代表するクローザーとなった息子の姿を見るため、母・ベリアさんも球場に通っていたそうです。
しかし20年、母が病に倒れると、時を同じくして山崎投手もスランプに陥り、守護神の座を追われます。もがき苦しむ息子の姿を、闘病中の母・ベリアさんは気にかけていたそうです。
「気持ちがとにかく強い、エネルギッシュなお母さんで結構ファンキーなんですよ。『あんた!そんなやられて、へこんで帰ってきたらもう家に入れないよ!そんな顔で帰ってくるな、明日も試合だろ』って。子どもたちに対する愛情は、僕はどこの家庭にも負けていない自信がある。守護神に返り咲くって、ずっと言ってきたんで、それを頑張れ、頑張れって応援してくれました」
山崎投手は病院とグラウンドを行き来しながらも、一から体を作り上げました。そして、本来のストレートのキレを取り戻すと、21年の東京五輪では中継ぎとして金メダル獲得に貢献。そしてDeNAの守護神に返り咲きました。
■約束した家をプレゼント
しかし、この年のシーズン最終戦、母・べリアさんが51歳の若さで亡くなりました。山崎投手は「ちょっと安心したのかなって、家族みんなで話してましたけど、(最後まで)見守ってくれた」と振り返りました。
母が病に倒れた約半年後、高校入学時に母と約束していた家をプレゼントしたという山崎投手。
「(闘病中に)3回来ましたね。それこそ亡くなる3日前に行きたいと言うもんですから、当時は車いすだと思うんですけど、一生懸命担いで(連れて行った)。本当にお母さんのために家を建てられて良かったなと思ってます」
■残留を決めた“母の言葉”
生前、毎年色紙に目標を書いて母に見せていた山崎投手。
「母とは、最後に目標を見せた時に、メジャーリーグに行くって約束していたんです。約束というか、行きたいと書き留めていたので母も見ていました」
それでも“メジャー挑戦の夢”と“横浜で投げ続けたい夢”との間で気持ちが揺れていた山崎投手。母に相談すると、返ってきたのは「私はやっぱり横浜であなたが腕を振ってるのが見たい」という言葉でした。
「最終的にはお母さんが何て言うかなって、考えたんですよね。そこで喜んでくれるのは、やっぱり僕が横浜で腕を振ることだなって。本当にお母さんはベイスターズが大好きだったので」残留を決断したのは発表の2日前。
今年31歳になる山崎投手にとって、6年契約は“生涯横浜”と言えるほどの長期契約。横浜でプレーする姿が好きだと話していた母のために、98年以来のリーグ優勝のために、これからも山崎投手は守護神として腕を振り続けます。