【箱根駅伝】伝説のコース間違え“寺田交差点”の真実「曲がった瞬間何もない」國學院大・前田康弘監督「脳裏に焼き付いている」
◆コース間違えの要因は下見中の…
当時の國學院大學は、予選会から箱根駅伝出場を目指すチーム。
予選会を2位で通過し、箱根駅伝に向けた準備のなかで前田監督は、「彼は上りが得意なので、5区で起用しようと。1年生は必ず1人起用したいというビジョンがあった」と、将来のチームを見据え、寺田選手を往路で起用することを考えていました。
しかし、予選会後、寺田さんが故障。故障明けでも走れる区間を模索し、往路・3区での調整をしていたといいます。
すると、緊張からか寺田さんが「(直前の)練習を外しまくっていた」と明かし、見かねた前田監督は、急きょ、区間を復路に変更。箱根駅伝の直前、12月30日の早朝に寺田選手とともに、車で10区のコースを下見したといいます。
車窓からコースを下見するなかで、「最後のところ、23キロのところ『ここだよ!』」と声をかけたという前田監督。しかし…
「実は後ろで(寺田さんは)寝てたんですよ(笑)。『ゴールはまっすぐだからな!』って言ったら寝てて」と、衝撃の事実を明かしました。
◆気持ちはすでに故郷へ
10区で寺田さんがタスキを受けた時点で國學院大學は11位。シード権=10位の青山学院大学とは21秒の差がありました。
前田監督は、「(寺田選手の)調子がよくないのは知っていたので、正直厳しいかなというのは、タスキもらったときに思っていたんです。10キロ手前くらいで失速しそうになっていた。そしたら後ろから山梨学院さんがすごい勢いで来て、寺田は後ろについたら復活したんですよ(笑)」と、話します。
一方の寺田さんは、「追いつかれてから、不思議なんですけど、かなり楽になって、そこからずっと余裕だった」と当時を振り返りました。
残り10キロを切り、國學院大學は、山梨学院大学、日本体育大学との11位争いを繰り広げていましたが、残り7キロあまりで、前を行く、帝京大学、青山学院大学に追いつき、シード争いは混沌とする展開に。
当時は、監督や関係者が給水をしてもいいルールで、最後に、寺田さんに力水を渡した前田監督。
「20キロ手前の銀座で車をおりて、明らかに寺田が余裕あって、周りがきつそうだったので、『行け!』って言ったんですよ。(そうしたら寺田選手は)フル無視したんですよ!」と声を荒らげると、寺田さんは、「前田さんが給水渡してくれるんですけど、僕あまりにも余裕だったんで、『いや、いらない』って(笑)(と答えた)」。
「ずっと余裕だったので、僕のなかではシードをとっている前提で走っていて、本当に余裕だった。次の日から帰省だったので、帰省のことを考えていて、気持ちよく帰れるなぁ、みたいなことをずっと…」と、気持ちは故郷の長崎に向いていたことを明かしました。
◆“寺田交差点”誕生の裏側
レースは残り1キロ、國學院大學、城西大学、日本体育大学、青山学院大学の4チームで3つのシード権を争う展開に。
タスキを受けたのは、11位だったものの、「順位がわからないので、とりあえず集団でトップになれば間違いなくシードだろう」と考えていたといいます。
残り300mを切り、青山学院大学の小林駿祐選手がスパート。すると、スプリント力に自信のあった寺田さんは、するすると前へ。悲願の初シードを目指して、ひた走ります。
「僕が(下見で)寝ていたのが悪いんですけど、なんか頭のなかで前田さんが言った(かもしれない)『曲がってすぐゴールだから』みたいなのが、勝手に頭の中に入ってて。中継車が前にかぶっていたので、ゴールどこだろうな、この1キロ長いなと思っていたら、中継車が曲がってくれたので、“あっ、前田さんが言った通り、曲がればいいんだ”」と考え、とコースを曲がったといいますが…
選手の前を走る中継車は、ゴールの直前でコースを離脱するため、寺田さんが曲がった方向に、もちろんゴールはありませんでした。
「曲がった瞬間何もないんで、頭の中が真っ白になって、ん?と思ったら、お客さんが『あっちあっち!』っと言ってくれて、おぉぉ!みたいな」と焦っていたことを明かし、「最初、一瞬あきらめたんですよね。もう無理だと思って。でも戻ったら意外と距離があったので、まだいけるなという感じで」と、驚異のスパートを見せ、シード権最後の一枠を勝ち取りました。
前田監督は「スプリント力があるのはわかっていた。ラスト勝負になったら1年生だけど能力が抜けていたので、それが的中したなと思っていた矢先の出来事(コース間違え)だった」と苦笑い。
今や三冠を狙える位置にいる國學院大学ですが、この87回大会で初めてのシード権を獲得しました。
前田監督は、「シード権が目標で、全力でみんなと戦っていたので、それが達成できたので、僕の中で脳裏に焼き付いている」と、語っています。