28歳になったばかりの大谷翔平 原点のリトルリーグ時代から花巻東高校時代そして日本ハムファイターズへ さらにそこから世界へ羽ばたくまでの軌跡を追う
7月10日に放送された日本テレビの番組「サンデーPUSHスポーツ」ではエンゼルス大谷翔平選手を特集。岩手県奥州市の水沢リトル時代の練習が大谷選手を左右へと打ち分けられるホームランバッターへの成長につながったことを紹介しました。
水沢リトルの監督・佐々木一夫さんを取材すると、リトルの練習グラウンドのライト側には川があり、大谷選手が左打席から引っ張ると柵を越えて水没してしまい、ボールが使えなくなってしまうので、監督をはじめコーチ陣は大谷選手に「引っ張り禁止令」を出したそうです。すると、大谷選手はレフト側にもホームランを打てるようになったと言います。さらに、全国大会行きをかけた試合で輝かしい記録がスコアブックに残されていました。
リトルリーグは6イニング制でアウトの数は全部で18個。その18個のアウトのうち17個を三振で奪った大谷選手。小学生の当時から伝説は始まっていました。
花巻東高校に入学した当時の大谷選手の身長は190cm、体重65kgでしたが「食事トレーニング」によって3年間で体重を20kg増量しました。大谷選手本人も「一番キツかった」と語っています。1学年下で当時のチームメート千葉翔太さんが大谷選手の当時の「食事トレーニング」について語っています。
「1日でどんぶり飯を10杯食べる」目標を掲げた大谷選手はどんなに練習がキツくても、時間をかけてその目標をクリア。「今日はいいや」という甘えは一切なく、目標に向かってブレない姿勢は今の大谷選手にも生き続けていると言います。
高校卒業後にメジャー挑戦を表明しましたが、日本ハムファイターズがドラフト1位指名。その後、幾度となく続いた入団交渉を経て、大谷選手は日本ハム入りを決めました。この時、大谷選手の心を動かしたのが「大谷翔平くん夢への道しるべ」と題した30ページにも及ぶ球団資料でした。直接メジャーに行った選手と日本でプロを経験してメジャーに行った選手の活躍度合いを数値化して示したり、メジャーの制度の過酷さを18歳の大谷選手に説明しました。さらに日本ハムは二刀流への挑戦も提示。高校卒業後すぐにメジャーに挑戦すると、二刀流は難しいかもしれない、という話もあったという。もし、日本ハム入りがなかったら二刀流・大谷翔平は実現していなかったかもしれません。
元ロッテのエースで日本ハムの投手コーチとして大谷翔平選手を指導した黒木知宏さんにも取材。当初、高校卒業後メジャー挑戦でアメリカに行くと思っていた黒木さんは日本ハム入りが決まって「これはえらいことだ。宝物を預かる身になってしまった」と当時を振り返りました。とにかく練習好きな大谷選手がオーバートレーニングで故障しないようにするため、目を離さないようにと当時の栗山英樹監督から注意を受けていたと言います。