"30年の競技生活"に別れ 江原騎士さん「僕の人生の全てだった」完全燃焼に笑顔 山梨県
5月31日、母校の山梨学院大で記者会見に臨んだ江原騎士さん(30)。2016年のリオデジャネイロ五輪・競泳で銅メダルを獲得したスイマーは引退に際し、指導者への感謝や、後輩たちへの期待を述べました。
■山梨から五輪に「幸せな経験」
江原さん
「山梨で生まれ育ち、これまで30年間、水泳というスポーツに携わり、選手を長らく続けられたことはすごい幸せ。五輪出場が夢で目標だったので、山梨学院高、山梨学院大を経て、山梨から五輪に出てメダルが取れた。水泳人生の中で幸せな経験ができ、うれしく思う。これからも山本光学(SWANS)の一社員として発展に携わり、個人としては水泳教室やレッスンを行い、山梨のスポーツなどに貢献できたらいい」
「東京五輪を最後に引退したいと思い、競技生活をやっていた。東京五輪(の出場)がかなわず、その場でやめようという考えもあったが、山梨に帰ってきて両親や(山梨学院大・神田忠彦)監督に会ったり、スポンサーのSWANSにあいさつに行ったりして「パリ五輪まで」と。世界水泳福岡もあったので、自国開催(の大会)にもう1回出たくて、続けると決心した。世界水泳は延期に延期を重ねて2023年の開催になった。22年は世界水泳に出たいという一心で頑張って練習に臨めた結果、日本ランキング1位となり、久しぶりにいいタイムが出た。そのときはあと1年続けられると思い、パリ五輪まで目指したが、やはり肩のけがもあって、厳しいと思い、引退を決意した。『やりきった感』はすごく強い。大満足、水泳人生に満足した。今後の生活は(これまで)水泳だけやってきたので、いろんな社会を見ていきたいと思っていて、楽しみ」
■競泳人生で強く記憶に残るのは…
江原さん
「リオのメダルが取れたことはすごくうれしかったし、五輪も経験できてよかった。リオの本番より、五輪出場を決めた選考会の方が心に残っている。すごく思い出に残るレースだった。初日に400m自由形で決めることができず、すごく不安や焦りがあったが、監督のアドバイスで切り替えられ、200m自由形で思いっきり上げることができ、代表権を獲得できて安心し、うれしかったと記憶に残っている。練習もすごくいっぱい記憶に残っている。今一番記憶に残っているのは山梨学院のプール。毎朝毎晩、すごくきつい練習をしたのを今でも思い出す。それがあったから結果が残った。一番きつかったメニューは400m10本。(神田監督が)毎日笑いながらメニューを言ってくださって(笑)…その顔を今でも思い出す」
「僕は甲府市生まれで、萩原智子さんが五輪に出ているのを見たとき、すごく憧れて目標にした。(県勢)男子のオリンピアンがまだ水泳から出ていないと神田監督がおっしゃっていた。大学(進学)を決めるときも、『山梨で活躍して山梨のジュニアスイマーのためにも率先していってほしい』と言葉をいただき、それが僕の原動力になった。山梨で活躍していろんなスポーツにも刺激を与え、水泳界をもっと盛り上げられたらという気持ちで今までやってこられた」
「山梨の水泳人口も減っていると聞き、(出身の)フィッツも昔に比べて小中学生の全国大会出場者数は減っているが、全国優勝など中高生にもすごくいい選手がいる。山梨のジュニアの結果を見たり、国体で一緒になったりするが、これからまだまだいい選手が出てくるという期待もある。現役ならではの経験や知識を話し、つなぐこともできるのかなと思う。ここ(山梨)からオリンピアンが出たというモチベーションをジュニアスイマーにも持ってほしい」
■「日本史上最軽量」抵抗の少ない泳法
江原さん
「自由形の中距離で『日本史上最軽量』といろんなコーチや選手仲間たちに言われてきた中、タイムも出せた。僕の中ではこの山梨学院のプールで日本記録を樹立できたときはすごくうれしかった。今、松元克央選手が日本の水泳界を引っ張ってくれている。松元選手が出てきてから、日本の自由形も世界で戦える位置に来たが、まだまだ日本の自由形は体格的に海外の選手に劣り、その中で戦わなければいけない。今、日本のジュニアスイマーも身長や体重で悩んでいて、SNS上でも結構そういう質問が来る。体格差で負けているが、それをちょっとでも補うために、僕が持っているスキルを受け継がせ、日本の水泳界がもっともっと盛り上がればいい」
神田忠彦監督
「泳ぐセンスがいい。大学に入ったときは体重52キロ、身長170センチ。水泳のコーチが100人いても、それを捕まえて『五輪に行くぞ』とは多分言わないだろうが、『行けるな』と思った。抵抗値が少なく、筋肉の質もいい。決して馬力はないが、自分の能力の限界を使える選手。それから記録に対する意欲・研究心がすごくある。総合的に見て、厳しい道のりだが五輪日本代表になって世界と戦うことができるだろうと、直感的に感じ、強引に勧誘した。人口が80万人を切るような県で、こういう種目でオリンピアンになることが次世代の夢にもつながるので、ぜひやってもらいたいと。本能的に抵抗を回避する能力などに長ける選手だった。あとは顔がいい(笑)。スター性がある。本当によく頑張ってやり切った」
■体格差を補うため 世界で戦うため
江原さん
「フィッツの清水正倫コーチ、松野圭介コーチも僕の恩師。高校ぐらいで身長も伸びなくなって止まり、体格が変わらなくなった。そのとき168センチだったが、大きい選手と戦うときにどこを強みにしなければいけないかと話し、フォーム改善の徹底はすごくするようになった。高校生のときにフィッツにいた松野コーチは、この山梨学院大で自由形の大学日本代表になって、現役を終えてすぐにコーチングされていた。僕は一緒に練習で競い合って、いつも負けていた。すごく泳ぎもきれいだったので、フォームを教えてもらった。日本のトップで戦っていたコーチが経験や知識を教えてくださったのはすごくありがたかった。そのときも僕の身長、体重を考慮していろんな考えを教えてくれた。もともとスタートやターンは体格も小さいので苦手だったが、ターンは何十回、何百回もダウンのときなどに練習した。すごく苦手だったが得意になり、素早く回れるようになって、日本でもトップクラスにうまくなったのではないか。高校生のときに両コーチに細かい動作を直すことでタイムが縮まることを教えていただいたのが、すごく大きかった。大学に入ってからは、1年の日本選手権100mで52秒かかった。そのときに監督に言われたことを覚えている。『身長が低いのにこういう大会でタイムが出せないということはもう無理だ。100から400、1500に距離を伸ばすぞ』と。僕も細かいところに気をつければタイムも縮まるんじゃないと思い、監督の意向に合わせたら、1500m短水路で30秒ぐらい、1年で縮めた。体格差を補う練習でタイムが縮まることが楽しかったので、中距離、長距離に転向してすごく良かった」
■完全燃焼「もう水は浴びたくない」
江原さん
「『初心を忘れない』ということを心がけた。山梨では有名な選手、速い選手もそんなにいない中で育ったが、日本代表に入るといろんな選手がいる。ちょっと結果残すと、天狗ではないが、練習をサボりがちになったり、『量より質でいい』という考えが生まれたりする。山梨学院はすごく練習量のある環境。小中高も結構泳ぐチームだったので、そういったベースがあるからここまで伸びたとすごく感じる。環境が変わっても、自ら楽な方に行かないように考え、細かいことを気にすることで速くなるとジュニア時代に知っていた。大学生になっても泳ぎの研究で動画をよく見るなど、フィードバックしながらやることを忘れずに心がけた」
「生後10カ月から水泳をやっていて、30年近くやったので、本当に水泳は僕の人生の全てだったと思う。今後は水泳を長くやってこれたからこそ、水泳に携わる仕事、スポーツに携わる仕事はやりたい。今まで人生の全てを懸けてやったものをこれからも生かせればと。まだ具体的に思いつかないが、ヴァンフォーレ甲府の天皇杯優勝など山梨のゆかりのあるチームや選手が活躍してるのを見ると、僕も勇気や感動を本当にもらった。僕は山梨生まれ・育ちで良かったと本当に感じているので、県民の皆さん、ジュニアスイマー、県のスポーツに携われる仕事はしたい。水泳だけに限らず、僕が行ってきた陸上トレーニングもほかのスポーツに生かせることもあると思う。世界で戦ってきた経験や知識を生かせる舞台があればと思う」
「山梨学院(のプール)は試合でもジュニアのころから泳いでいた。大学4年間は本当に一日の半分ぐらいはいた。ここで会見できることはすごくうれしい。2カ月前までここで練習していた。引退したから言えるが『もう本当に練習したくない』(笑)。やめても泳ぎたい、ちょっと体を動かしたい人もいると思うが、僕は全く体を動かしたくないし、プールも入りたくないし、水は浴びたくない(笑)」
「結果として東京五輪もパリ五輪もあと0.2秒、0.3秒で行けなかった。0.2秒、0.3秒埋まらなかった。後悔はないが、練習でもうちょっと突き詰めれば、そのぐらいのタイムは縮んだのではないかとも思う。でも本当にメダルが取れて良かったと思うし、自分の人生は本当に夢もかなったし、完全燃焼できた」