在日アフガン人「20年間は何だったのか」
アフガニスタンをイスラム原理主義勢力タリバンが制圧したことを受け、日本で涙を流し、怒りをあらわにしたアフガン出身の男性がいます。日本アフガニスタン協会理事のファルク・アーセフィさん(63)。「20年間は何だったのか。また悪夢が始まった」と話します。
■44年前に交換留学生として来日…
1977年、ファルク・アーセフィさんは、創価大学の交換留学生として来日しました。当時のアフガニスタンはとても平和で、日本で学んだ法学の知識を使って、いつかアフガンの国の憲法をつくりたいという夢を持っていました。しかし、日本留学中に、ソ連がアフガンに侵攻し、その後、内戦が勃発。大学を卒業した際、内戦状態だったアフガンには帰れなくなったといいます。
■20年前にカブール制圧に身が震えるほど喜んで泣いていた
2001年9月のアメリカ同時多発テロの後、ブッシュ政権はその首謀者を国際テロ組織「アルカイダ」のウサマ・ビンラディン容疑者と断定し、10月にアフガンに潜伏する「アルカイダ」の勢力とその協力者に対する軍事行動「不朽の自由作戦」を開始しました。
アーセフィさんの出身地のアフガン北部には、当時から反タリバンで諸勢力を結集する軍事勢力「北部同盟」の拠点がありました。アーセフィさんは、指導者のドスタム将軍と直接つながるパイプを持っていたのです。
その年の11月13日に、アメリカ軍とその支援を受けたドスタム将軍らが率いる「北部同盟」が当時のタリバン政権を攻撃し、首都カブールを制圧しました。その瞬間を東京で見守るアーセフィさんは、体が震えるほど喜んで、涙が止まらなかったと振り返ります。
翌2002年1月、東京でアフガニスタン復興支援の国際会議が開催されました。アーセフィさんは、来日したアフガニスタン暫定行政機構のカルザイ議長(当時)を羽田空港で出迎え、国会などでの通訳も務めました。
■今度は怒りの涙「20年間は何だったのか。また悪夢が始まった」
アフガンの平和構築と復興支援のため、アーセフィさんは「この20年間、日本はアメリカに次ぐほど財政的に多大なる援助と支援を行った。私もJICA(=国際協力機構)の研修監理員として、カブール市役所職員の研修や女性警察の養成など、様々な支援プログラムに協力してきた」と話します。
「ガニ政権下ではいろいろな問題があっても、ある程度の民主主義や人権が進んだ。これまでの成り立ちから言ってもタリバンは絶対に容認できない」と語気を強めるアーセフィさん。
「先週日曜夕方、地下鉄に乗っている時、カブールに住んでいる友人からSNSで、タリバンが三つの幹線道路からカブールに入ったとのメッセージが入った。市内のプルチャルキ刑務所の門が開き、囚人たちがどんどん出てきたそうだ。前の日に北部都市のマザリシャリフが陥落したと聞いたので、カブールも時間の問題だろうと予想していたけど、こんなに早く、そして、こんな形で首都が掌握されるとは、全く考えていなかった。ショックだった。その後、大統領も逃げ出したと聞き、怒りを堪えられなくて、涙が出た。20年間は何だったのか。また悪夢が始まったと叫びたい」と、いつも陽気なアーセフィさんは怒りをぶちまけました。
■「見捨てずにアフガンの平和構築と復興支援に力を貸してください」と訴える
法務省によりますと、去年12月の時点で日本に滞在するアフガニスタン人は3509人です。
アーセフィさんは、カブール空港に押し寄せる人々のなかに、自分の友人もいるといいます。アメリカの軍用機から人が落下した映像を見て、「どうせ死ぬなら一か八か命を賭けてみようというアフガン人の気持ちはよく分かる」と話します。
「タリバンが『国際協調』の姿勢を見せても、すぐに情報社会を閉鎖して恐怖政治に変わると思う。故郷の北部では、すでに『12歳以上の女性に対し、直ちに地区のモスクに申告するよう』通達が出ている。女性の人権と安全が脅かされている。これまで市民の娯楽施設だった場所は放火され、閉鎖に追い込まれている。私たちは全くタリバンを歓迎していない。日本を含め、国際社会がアフガンに対し、関心を持ち続けてほしい。見捨てずにアフガンの平和構築と復興支援に力を貸してください」と、アーセフィさんは切に訴えています。
写真:タリバン政権が崩壊したことでアーセフィさん(右側から2番目)が故郷を訪れた2002年3月。左側の3人は幼なじみ、右側1番目は現地の司令官