普天間基地の中へ“ここに家が”男性の思い
沖縄は23日、70年前の沖縄戦で旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる慰霊の日を迎えた。翁長知事は追悼式の「平和宣言」で、アメリカ軍普天間基地の名護市辺野古への移設中止を訴えた。「世界一危険」といわれる普天間基地については、移設を巡り沖縄県と政府の対立が続いている。今回、普天間基地に自宅を奪われ、その後も基地と向き合い続けた男性を取材した。そこから見えてきたのは今も続く、沖縄の苦しみだった。
年に一度の一般開放日に、アメリカ軍普天間基地の中へ入ることが許されたが、この場所に帰りたくても帰れない人がいる。普天間基地を見渡せる場所で、仲村元惟さん(78)と会った。戦前、仲村さんは、現在、普天間基地がある場所に住んでいたという。
1945年4月1日。アメリカ軍が沖縄本島に上陸し、多くの民間人をも巻き込む凄惨(せいさん)な戦いが繰り広げられた。当時7歳だった仲村さんは、アメリカ軍の上陸直前、母親と姉、弟らと共に現在の普天間基地の敷地内にあった自宅から県北部に疎開したという。そこで知らされたのは、召集されていた父が沖縄県内で戦死したということだった。
捕虜となり、収容所で終戦を迎えた仲村さん一家。その後も収容所から出られず、1年以上たってようやく自宅のあった場所に戻ってきたという。しかし、生まれ育った家は跡形もなくなっていた。上陸直後から日本本土への攻撃の準備を進めたアメリカ軍。滑走路を建設するため、家があった土地を強制的に取り上げていた。いくつかの村をのみ込み、そこには巨大な普天間基地ができていた。
現在も、普天間基地から約100メートルの場所に住む仲村さん。基地は、仲村さんから家を奪っただけではなかった。1960年代、アメリカ兵らしき外国人がこの家の2階に侵入したことがあったという。
仲村さん「娘たちが騒いだんです。『お父さん』という叫び声があったから、走って2階に上がってみると、米軍(兵)と格闘してるんですよ、娘たちが」
仲村さんが駆けつけると、その外国人は逃げていったという。
さらに、訓練中だったアメリカ兵のパラシュートが開かず、庭先に落ちてきたことも。また、仲村さんは普天間基地の騒音とも長年、向き合ってきた。
戦後、教師になった仲村さんは、普天間基地に隣接する普天間第二小学校の校長に着任した。
1996年4月12日。仲村さんの歓迎会が開かれている最中にあるニュースが飛び込んできたという。その日、県内移設を条件に日米両政府が普天間基地の全面返還に合意したと発表したのだ。
“これで、子供たちを思い切り校庭で遊ばせることができる”-しかし、仲村さんのその思いは裏切られた。仲村さんが校長の任期を終え、17年がたった現在も、小学校の上空にはアメリカ軍の航空機が飛んでいる。
戦後70年-仲村さんにとって戦争はまだ、終わっていない。