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両陛下 被災者に心を寄せる原点の旅(上)

2021年3月29日 17:18
両陛下 被災者に心を寄せる原点の旅(上)

阪神・淡路大震災の3日後、皇太子時代の天皇陛下が「しのびない気持ち」という言葉を残して皇后雅子さまと中東訪問に向かわれたことがありました。被災地を案じながら親善に努め、予定を2日早めて帰国された旅は、公務と気持ちの「狭間(はざま)」に揺れた日々でした。被災した人たちに心を寄せる原点とも言える旅を振り返ります。(日本テレビ客員解説委員 井上茂男)

【コラム】「皇室 その時そこにエピソードが」第6回「両陛下 被災者に心を寄せる原点の旅」(上)

■中東3か国訪問 阪神・淡路大震災3日後の旅立ち

1995(平成7)年1月20日午前10時30分。皇太子ご夫妻だった天皇皇后両陛下を乗せた政府専用機が羽田から飛び立ちました。クウェート、アラブ首長国連邦、ヨルダンをめぐる中東3か国訪問の出発です。マグニチュード7.3の激しい地震が兵庫県南部を襲ったのは3日前の17日午前5時46分。阪神高速道路やビル、家屋などが倒壊し、火災に阻まれながら救出活動が続いていました。最終的に死者6434人、負傷者4万3792人に上る関東大震災以来という大災害でした。

■お悔やみとお見舞いの言葉から始まった記者会見

外国訪問の前には記者会見が行われます。震災当日の17日に予定されていた記者会見は「お気持ち」で延期され、出発前日の19日に行われました。両陛下は控え目な濃紺のスーツで静かに着席すると、質問に入る前に、犠牲者へのお悔やみと被災者へのお見舞いの言葉を述べられました。「被害の規模が極めて大きく、日を追って被害が甚大であることが判明していることに深く心を痛めております」。思い詰めた表情でした。皇后雅子さまも陛下に促されて話されました。「私も殿下と同じ気持ちでおります。突然訪れました大災害に深く心を痛めております」。泣いているかのように聞こえました。

■異例の発言「外国へ行くのは大変しのびない気持ち」

「関連質問」では、出発に葛藤がおありになるのではという質問が出ました。「この度の被害は非常に多くて、未だに生き埋めになっておられる方々もおられるという状況の中で、外国へ行くということは大変しのびない気持ちでおります。一方、皇族の仕事としまして国際親善もまた大きな仕事でもあり、こういう状況ではありますけれども、親善訪問に努めてまいりたいと思います。日本を離れている間も、地震の犠牲者、被災者のために祈っていたいと思います」と陛下。雅子さまは「国内でこういうことが起きている時期に国を離れるということは、大変しのびないという言葉がよろしいんでしょうか、そういう気持ちでございますが、あちらに参りましても、国内で苦しんでいる方たちのことを忘れず、一刻も早く立ち直られることを日々祈っていたいと思います」と話されました。

外国訪問前の記者会見は、訪問国に対するメッセージでもあります。これから訪ねて行こうという時に「大変しのびない気持ち」を表明されるのは、外交官出身の雅子さまがためらわれたように、極めて異例の発言でした。

■「良かれ」と祈り続ける皇室の役目

お二人が述べられた「祈っていたい」という思いは、上皇后さまの「皇室は祈りでありたい」という言葉が基にあると思います。1990(平成2)年4月、陛下の妹の黒田清子さん(紀宮さま)が成年になって記者会見に臨んだ折、母の言葉を引いて皇室像を語っています。「ある事柄や事態に対して、それがどのように説かれていくのが最も良いかということを決めるのは、国民の英知であって、皇室はひたすらにそのことに関して良かれと、祈り続ける役目を負うということを表しております。行動に起こすということは、目に見えやすいことかもしれませんが、ある大切なことに対して、いつも、そして長く心を寄せ続けるということを私は日本の皇室の姿として心に描いております」

■2度延期された懸案の訪問

震災の中で出発されたのには特別な事情がありました。1991(平成3)年2月、天皇陛下の独身時代にサウジアラビア、オマーン、カタール、バーレーン、アラブ首長国連邦、クウェートの湾岸6か国訪問が計画されました。サウジアラビアは1981(昭和56)年に上皇ご夫妻が訪問されていますが、他の5か国は未訪問でした。石油を大きく依存しているだけに、皇室の訪問が待たれていたのです。

ところが、出発の1か月前にイラクがクウェートに侵攻して湾岸戦争が始まり、延期となります。再び具体化したのは翌1992(平成4)年12月。陛下が雅子さまにプロポーズされ、周囲が固唾をのんで進展を見守っていた頃です。年が明けると英米仏合同軍によるイラク空爆が始まり、出発2日前の1月20日に再び延期が決定されます。陛下と雅子さまとの婚約が皇室会議で正式に決まり、お二人で記者会見に臨まれた翌日のことでした。

■「さすがに3度は…」と出発

1993(平成5)年6月9日のご結婚を経て、湾岸6か国に、皇室と親交の深いヨルダンを加えた湾岸7か国訪問案が持ち上がります。ご夫妻にとって初の外国訪問です。国の数が多く、2回に分けて計画が練られました。1994(平成6)年11月にサウジアラビア、オマーン、カタール、バーレーンの4か国、年が明けて1995(平成7)年1月にクウェート、アラブ首長国連邦、ヨルダンの3か国を訪ねるという計画です。

前段の訪問は雅子さまの“皇室外交”デビューでした。動静は装いも含めて大きく報道され、親善の実を挙げました。「次も」という期待の中で大災害が起きました。2回目の延期が出発の2日前でしたから、3回目の延期も可能だったでしょう。宮内庁幹部はしかし「さすがに3度は」と、予定通りの出発を決めたのです。

■情報に飢えていた侍従

当初の主な日程(11日間)を報道資料から見てみます。

1月20日 羽田発、シンガポール泊

21日 クウェート入り。歓迎式典。首長表敬、首長主催の晩餐会

22日 皇太子との会談、遊牧民の住居などの展示を視察、皇太子主催の晩餐会

23日 アラブ首長国連邦のアブダビ入り。アブダビ皇太子と歓談、皇太子の晩餐会

24日 ラクダレース見学、五輪代表候補による日・ア親善サッカー試合ご覧

25日 ドバイで運河を観覧、ドバイ皇太子午餐会、日本総領事館開館式

26日 石油施設視察、ヨルダンのアンマンへ、国王王妃表敬、皇太子夫妻の晩餐会

27日 王廟訪問(陛下)、赤新月社病院開所式(雅子さま)、ペトラ視察、アカバへ

28日 死海視察、国王・王妃主催の晩餐会

29日 王立科学院視察、記者会見、歓送式典、帰国へ(シンガポール泊)

30日 帰国

阪神・淡路大震災の死者数は、日を追って増えていきました。お二人は、東京からファクスで送られる新聞各紙で状況を把握し、現地のニュースで最新情報を得ていました。今ならスマートフォンで最新ニュースにアクセスできますが、当時はそうはいきません。「情報に飢えています」。侍従は訪問先で記者たちをつかまえては情報を求めましたが、こちらにも情報はなく、「すみません」と首を振るしかありませんでした。(続)

※冒頭の動画は、中東3か国訪問前の記者会見(1995年1月19日)