両陛下 被災者に心を寄せる原点の旅(中)
阪神・淡路大震災の3日後、皇太子時代の天皇陛下が「しのびない気持ち」という言葉を残して皇后雅子さまと中東訪問に向かわれたことがありました。被災地を案じながら親善に努め、予定を2日早めて帰国された旅は、公務と気持ちの「狭間(はざま)」に揺れた日々でした。被災した人たちに心を寄せる原点とも言える旅を振り返ります。(日本テレビ客員解説委員 井上茂男)
【コラム】「皇室 その時そこにエピソードが」第6回「両陛下 被災者に心を寄せる原点の旅」(中)
■被災地を連想させた戦争の爪痕
天皇皇后両陛下の中東3か国訪問は、予定通りに進んでいきました。
クウェートの町には、イラクの侵攻から4年以上たっても焼けただれた戦車が残され、旧首長府の時計塔は戦車の砲弾で撃ち抜かれて穴が開いていました。そうした戦争の爪痕は阪神・淡路大震災の被災地の惨状を連想させ、お二人も、随員たちも、言葉なくうつむきがちでした。
日本への関心は高く、各地の歓迎も熱烈でしたが、要人との会談では「国民みなが深い悲しみを覚えています」(クウェートのジャビル首長)というお見舞いの言葉が続々と寄せられ、一行を包む重い空気は増していきました。そんな中で、雅子さまの装いは華やかでした。前々から入念に準備された衣装であることは十分にわかっていても、被災地のことを考えるとどうしても浮いているように見えました。
■ヨルダン 晩さん会が終わって出た帰国の動き
最後の訪問国ヨルダンに入った1995年1月26日の夜、帰国の動きが出ました。ハッサン皇太子夫妻が主催する晩さん会に先立ってフセイン国王、ヌール王妃と歓談が行われ、国王は「お二人のご心配はよくわかります」「友だちが大変な思いをしている時に、自分たちもできるだけのお手伝いをしたい」と述べました。「お手伝い」が何を意味するのか取材した時にはわかりませんでしたが、国王の言葉は、予定を切り上げて帰国していただいて構いませんからという“助け船”でした。
旅は終わりに近づき、27日からは古代都市のペトラ遺跡や、塩湖で有名な死海の視察と“観光色”を帯びていきます。お二人が被災地の人たちのことを案じて痛々しいほど心を痛められるなか、国王の温かい気遣いを受け、27日朝、ペトラ視察などをやめて国王との昼食会に変更し、その日のうちに帰国の途に就くことが決まりました。
■「帰ってどうされますか」――言いよどんだ陛下
当時は、訪問の最後に現地でも記者会見が行われていました。お二人は国王との昼食会を終えると、午後2時過ぎからあわただしく記者会見に臨まれました。
当時のメモを見ると、陛下は「日本を離れて日一日と被害が大きくなっている現状に大変心を痛めていました。昨日こちらに参りまして、ヨルダン側の配慮もありまして、急きょ帰国という形になりました。帰国してからのことは宮内庁と相談したいと思います。両陛下のおそばで何か役立つことができればと思っています」と話されました。沈痛な面持ちの陛下の横で、雅子さまは膝に置いた両手を固く握られていました。
「関連質問」に移り、帰国してすぐに被災地に入られるのではないかと考え、筆者も「帰国してどうされますか」と質問しました。「これは、…………いろいろ周囲と相談して決めたいと思います」。記憶では、陛下は「これは」と言って言葉に詰まり、雅子さまが耳元に顔を寄せて何かをささやかれ、「いろいろ周囲と~」と言葉が続いたように思います。なぜ言いよどまれたのか思いをめぐらせながら、一日も早く被災地を見舞いたいという気持ちを表明されてよさそうなのに、それを口にされないことを不思議に思ったものでした。
■「狭間(はざま)」 複雑な胸の内を吐露した陛下
「関連質問」では「災害時に外国訪問に出たことに非難の声がありますが」という質問も出ました。陛下は「あくまでも閣議の決定によるものですので、私の気持ちだけですべてを決めることはできません。こちらに来る時に『しのびない気持ち』と申し上げたことは確かだったと思います」と述べ、「もう一つ付け加えれば」と断って、「訪問は前々から懸案となっていたので、この約束は皇太子の立場上、果たさなければならないと思っており、その狭間をどう考えたらいいのか難しかった」と続けられました。「狭間」。陛下が日常の会話で使われることがなさそうな言葉に、複雑な胸の内がうかがえました。
■「外交的配慮は裏目」 厳しい報道
ヨルダン出発は午後4時半。記者会見の記事をワープロで書いて東京へ送信し、宮内庁職員に急かされるように政府専用機に乗り込みました。機内に旅が終わった安堵感はなく、重い空気が漂っていました。
政府への厳しい報道が少なくありませんでした。朝日新聞(1月29日)は「『外交的配慮』が裏目 外務省甘さを認める声も」と伝え、東京新聞(31日)は「国民感情との間にズレ」という見出しで繰り上げ帰国について「批判を考慮してのつじつま合わせといわれても仕方ない」と書きました。
■「楽しまれたという報道が痛かった」と政府関係者
それから何年も後のことです。当時の関係者から、2日早く帰国された背景について「アラブ首長国連邦でのラクダレースと、ドバイでの運河遊覧の報道がきっかけだった」という話を聞きました。中東ではラクダレースは国技で、視察することに意味があり、ドバイの運河を船で視察するのは伝統に触れる有益な体験でした。しかし、「ラクダレースを楽しまれた」「運河を船で遊覧されました」とお二人のにこやかな表情がテレビで流れ、被災地の惨状に場面が切り替わると、「こんな時にお二人は楽しんでいる」と非難の声が上がったのが痛かったそうです。
ペトラ遺跡や死海の視察も「楽しんだ」と伝えられることになったでしょう。両陛下の被災地に対する思いが強いなか、「ペトラ視察は取りやめた方がいい」という意見が出て、国王の“気遣い”もあることから帰国の道を探ったのだそうです。
■「楽しんでいる」と受け取られた親善の笑顔
改めて当時の映像を見ると、お二人は、各地の歓迎にとてもにこやかに応えられています。ドバイ運河の遊覧の際には、カメラを構える場面にも笑顔が見え、どうしても「お楽しみ」という印象を受けます。親善に努めて笑顔で接すれば、日本では楽しんでいると見られ、何ともお気の毒としか言いようがありません。
「『ラクダレースを楽しまれた』とか、『運河の遊覧を楽しまれました』とか伝えられたのは心外でした。『遊覧』ではなく『視察』です。そこをきちんと伝えてほしかった」。関係者はそう言って筆者を責めましたが、報道資料に「遊覧」の文字はあり、災害を押しての出発にそもそも首を傾げていましたから、素直にうなずけず反論したものでした。(続)
※冒頭の動画は、ラクダレースと運河の視察(1995年1月24、25日 アラブ首長国連邦)