×

昭和天皇とマッカーサー(上)

2021年9月7日 10:32
昭和天皇とマッカーサー(上)
「昭和天皇とマッカーサー元帥の会見および会見を終えて出る昭和天皇」1945(昭和20)年9月27日

76年前。敗戦後の8月はあわただしく過ぎ、9月に入って降伏文書の調印式や米軍の進駐と、経験したことのない動きが続いていました。その中で昭和天皇は連合国最高司令官のマッカーサー元帥を訪ねます。その訪問が異例ずくめでした。(日本テレビ客員解説員 井上茂男)

【皇室コラム】「皇室 その時そこにエピソードが」第11回<昭和天皇とマッカーサー 上>

■異例ずくめ 信号で止まった車列

1945(昭和20)年の9月27日午前9時52分。「宮城(きゅうじょう)」と呼ばれていた皇居の正門から4台の車が二重橋前広場に出てきました。

桜田門の交差点で信号が黄色に変わり、路面電車の隣に停まります。虎ノ門、溜池を過ぎ、車列は赤坂のアメリカ大使館脇の坂を上っていきました。午前10時1分。現在の大使公邸の玄関に厳しい表情で降り立ったのは昭和天皇です。マッカーサー元帥に会うための、非公式で、極秘の訪問でした。訪問の主務官を務めた筧素彦・宮内省元総務課長が『今上陛下と母宮貞明皇后』に様子を詳しく記しています。

終戦から1ヶ月半。この間、9月2日には降伏文書の調印式が行われ、8日には米軍の東京進駐、11日には戦争犯罪人の逮捕命令と大きな動きが続き、天皇の退位や戦争責任も様々に言われていました。

9月4日、昭和天皇は帝国議会の開院式のために戦後初めて宮城の外に出ます。陸軍の軍装に身を包み、「御料車」と呼ばれる車はサイドカー5台に護られ、その後ろにお付きの車が続きました。それが27日の装いはモーニングコート、車列はサイドカーなしの4台です。護衛の車は先頭の1台だけでした。

大きな変化は御料車の色でした。当時の御料車は「溜(ため)色」と呼ばれるあずき色で、一般の車がその色を使うことは禁じられていました。「赤ベンツ」と言えば御料車の代名詞でした。それがこの日は黒塗りです。天皇の装い、少ない車列、色を変えた車、交通規制のない移動。戦前には考えられない「人払いのない行幸」でした。配置された警官にも理由は伏せられていたのです。

戦争末期、昭和天皇を長野県の松代に移す計画が軍部にありました。この時、溜色の車では目立つと黒に塗り替え、その車が元帥を訪ねる時に使われたという話が宮内庁に伝わります。御料車が現在のように黒塗りになったのもこの訪問がきっかけだったという話も聞きました。

■写真撮影から始まったマッカーサー会見

訪問には藤田尚徳侍従長ら6人が同行しましたが、会見の部屋に入ったのは昭和天皇と元帥、そして通訳を務めた外務省の奥村勝蔵・御用掛の3人だけでした。

会見は37分。最初に写真が撮られます。腰に手を当てて立つ65歳の元帥と、緊張気味の44歳の昭和天皇の、有名な写真です。写真は3枚撮られました。1枚目は元帥が目を閉じ、2枚目は昭和天皇が口を開けていたからです。「写真屋というのはパチパチ撮りますが1枚か2枚しか出て来ません」。歴史的な会見はこうして元帥のジョークから始まりました。

『昭和天皇実録』には、奥村御用掛が残したメモを基に、「マ」「陛下」と発言を明示してやり取りが約4ページにわたって記されています。元帥は冒頭、空軍力や原子爆弾の破壊力は筆紙に尽くしがたく、今後もし戦争が起きれば人類絶滅に至るという考えを示し、終戦の判断は国民を救う英断だったと述べました。昭和天皇は戦争になったことを「自分の最も遺憾とするところ」と答えました。

元帥の演説は約20分続きました。奥村御用掛が『国際時評』(鹿島研究所出版会)に寄稿した「通訳」によると、元帥は緊張の表情で奥村御用掛をにらみ、「Tell the Emperor(天皇に告げよ)」と切り出してとうとうと述べ、通訳を待ってまた「Tell the Emperor」と続けました。「His Majesty(陛下)」とは絶対に言わなかったそうです。

内閣情報局は27日午後、訪問については宮内省発表や司令部の発表以外は扱わないようにという通達を出しました。翌28日の各紙はその通りに伝えましたが、29日朝刊で読売、朝日、毎日の3紙が、会見の写真と、昭和天皇がアメリカ人記者の質問に答えた内容を載せました。

情報局は不敬とみて3紙を発禁にします。激怒したのはGHQ(連合国最高司令官総司令部)です。一切の制限を停止するように命令し、処分は解除されました。

当局が発表した写真なら問題はないのにと不思議でしたが、読売で検閲当局との渉外にあたった高桑幸吉氏の『マッカーサーの新聞検閲』(読売新聞社)に「米人記者グループの入手したものが各新聞社に流された」という記述を見つけ、納得しました。『朝日新聞社史』は「写真と、合わせて掲載された米人記者の天皇会見記が皇室の尊厳をそこない、公安に害があるとして」と発禁の理由を記しています。

敗戦の現実を見せつけるような写真に衝撃が広がります。「ウヌ! マッカーサーノ野郎」。歌人の斎藤茂吉は日記(『斎藤茂吉全集』)に怒りをぶつけています。

■湿気を除くためにたかれていた暖炉

奥村御用掛の寄稿「陛下とマ元帥」(吉田茂『回想十年』)に興味深い記述がありました。暖炉に赤々と火がたかれ、「黒紋付羽織袴、白足袋に雪駄」の男性が、時々、薪をお盆にのせてしずしずと捧げ持ってくるのが「なんともいえぬユーモアを漂わせた」というくだりです。男性は船山貞吉という初老の三太夫(さんだゆう=執事)で、戦前の日本に長く滞在したジョセフ・グルー大使が信頼を置き、戦後に呼び戻された人でした。

9月になぜ暖炉に火が入っていたのか。答えは、子息の船山喜久彌氏の著書『白頭鷲と桜の木──日本を愛したジョセフ・グルー大使―─』(亜紀書房)にありました。戦争で閉じられていた部屋には湿気が感じられ、カビの臭いもありました。「陛下にご不快がないように」。それは元帥のジーン夫人が提案した気遣いでした。

貞吉氏の紋付袴姿には、威儀を正して昭和天皇を迎えたいという思いがありました。ジーン夫人から「いい考えね」と言ってもらって日常の米軍スタイルを改めていたのです。紋はアメリカの国鳥「白頭鷲」。昭和天皇もまさかアメリカの施設で白頭鷲の紋付を着た日本人が登場するとは思わなかったことでしょう。

(「」 に続く)

【略歴】井上茂男(いのうえ・しげお)

日本テレビ客員解説員。元読売新聞編集委員。皇室ジャーナリスト。1957年東京生まれ。読売新聞社会部の宮内庁担当として天皇皇后両陛下のご成婚や皇后さまの適応障害、愛子さまの成長などを取材。著書に『皇室ダイアリー』(中央公論新社)、『番記者が見た新天皇の素顔』(中公新書ラクレ)