沖縄戦“終結”79年 きょう慰霊の日「平和の礎」に込められた理念とは? ~建立に携わった戦争体験者が語る~
6月23日、沖縄は79年前の沖縄戦で組織的戦闘が終わった日とされる「慰霊の日」を迎えました。最後の激戦地・糸満市摩文仁の平和祈念公園にある「平和の礎」には、沖縄戦などで亡くなった24万人余りの名前が刻まれています。国籍や敵味方、軍人と民間人の区別なく、犠牲者を追悼する「平和の礎」に込められた理念とは何か。およそ30年前、礎の建立に携わった元沖縄県幹部が語りました。
■「平和の礎」に刻まれた24万人余りの名前
高山朝光さん(89)。先月末、ゆかりの深い平和祈念公園に、その姿がありました。「平和の礎」に刻まれた24万人余りの名前。これを20日以上かけ、すべて読み上げる取り組みを続ける「沖縄『平和の礎』名前を読み上げる集い」実行委員会から、スタディーツアーの講師として招かれました。高山さん自身も「集い」の顧問を務めています。
「丘は真っ白で、木もない。ものすごい砲撃と爆撃でやられて、石灰岩が白くなっていた。水くみ場だった泉の周囲には、まだ人の骨が残っていた。崖の下にも骨が。ここに来ると、思い出します」
高山さんが終戦の4年後に目にした摩文仁の様子です。
■30年前…「平和の礎」建立に奔走
高山さんは1990年代、当時の大田昌秀県知事(2017年死去)の時代に、県の知事公室長や政策調整監として「平和行政」を担当しました。
「沖縄を平和発信の拠点に」という大田元知事の思いを受け、戦後50年の節目となる95年に向けて「平和の礎」の建立に奔走した高山さんは、敵味方や国籍、出身地域などの区別をせず、すべての犠牲者の名前を刻んだ点に、世界でも類を見ない「平和の礎」独自の理念が込められていると話します。
「人を憎まず、戦争を憎む。永久に戦争があってはならないということを掲げていく。行政だけでなく、沖縄県民、一人ひとりの思いが、その中に刻まれている」
当時、戦死したアメリカ人の名前を刻まないよう求める声が、県民の間から一切、上がらなかったことに高山さんは心を動かされたといいます。
「沖縄には琉球王国以来の平和思想がある。『命どぅ宝』の思い、沖縄の心。そういう平和への思いが、人々の心の中に見えざる伝統としてある」
「地獄の沖縄戦を経験した中で、戦争そのものが悪い、だから、戦争を憎んで、人を憎まないという思いが、人々の中にあるのではないか」
■無数の死体…10歳で経験した沖縄戦
高山さんが平和行政に力を注いだ原点にも、10歳で遭遇した沖縄戦の過酷な経験がありました。
アメリカ軍の艦砲射撃や火炎放射で、沖縄本島北部の本部町では、集落も森も焼け野原になりました。家族とともに撤退する日本軍の後を追い、山の中をさまよった日々。無数の死体を見ても、何も感じなかったといいます。
「戦争とは、そういうもんでね。いかに無残な状況だったか」
軍人と民間人が混在していたがために標的とされた自身の体験から、高山さんは「中国の脅威」を背景に、宮古島や石垣島、与那国島など沖縄県内で進む自衛隊の配備強化に、警鐘を鳴らします。
「武力強化をして対峙するぐらいなら、同じだけの力を注いで中国と対話をしていくことが非常に重要。今の段階で止めないと、戦争の状況に走っていくと、止めることができない。我々自身が、いかにして平和の大事さを伝えていくのか」
■「礎」の思い 次世代へつないで
戦争体験者や遺族の高齢化が進み、戦没者を直接知る人が減っていく中、「礎」に刻まれた名前を読み上げる取り組みは、失われた一人ひとりの命に思いをはせ、「平和の礎」に込められた理念を発信する貴重な機会となっているとして、「集い」のメンバーらに感謝の思いを伝えた高山さん。
「名前を刻んだ石が波形に配置され、その波が太平洋に向かって平和を発信していく」という「平和の礎」のデザインにも触れながら、高山さんは沖縄の平和への思いを世界に伝え続けてほしいと訴えました。
(日本テレビ那覇支局長 佐藤拓)