「もう帰れないかも…」能登全員避難の孤立集落 住民の切実な思い
住み慣れた家も思い出も、全て置いて避難せざるを得なかった孤立集落の人たち。震度7の地震で周囲の道路が寸断した石川県輪島市の大沢(おおざわ)町では、孤立状態で10日あまり生活したのち、住民全員が集落の外に避難しました。慌ただしく「全員避難」してから1か月。少しずつ車が出入りできるようになる孤立集落もある一方、大沢町は依然立ち入ることができません。遠く離れたホテルで過ごす住民たちは、残してきた自宅への思いが募る中、すでに次の避難先を決めなければならない状況に置かれていて、今後への不安を抱えながら過ごしています。
■バッグ1つで…突然のヘリ避難
「1つずつしかダメって言われて…」
二次避難先のホテルで、自宅から持ち出したバッグを見せてくれた谷内圭子(やち・けいこ)さん(76)。集落の住民がヘリコプターに乗り合って避難したため、荷物は1人1つまで(キャリーケースは不可)に制限されていました。谷内さんは、当面必要なものを入れた布製のボストンバッグだけを手に避難してきました。
谷内さん
「本当に何にもないの。春になったらどうなるか、着る服がない」
ないのは服だけではありません。
使い慣れた家電や車、子供たちの成長の記録や思い出の写真の数々…。約30年暮らし、2人の子供を育てた家には、夫婦で歩んだ証しが詰まっていましたが、全て手放さざるを得ませんでした。
■「生きている間に帰れるか」住民の多くは高齢者
谷内さんと夫(75)は市街地から車で20分ほどの輪島市大沢(おおざわ)町に住んでいました。竹を組んだ垣根「間垣(まがき)」が立ち並ぶ美しい集落です。
しかし地震による土砂崩れなどで、集落へ続く県道や林道は壊滅的な状況になりました。
谷内さん
「復旧工事は国道が先でしょう。輪島の市街地があんなにひどい状態なら、私のところはもっともっと後になる」
自宅は大きな損傷は免れましたが、道路が復旧しない限り物流も医療も途絶えたまま。自宅で暮らすのは現実的ではありません。仮に復旧に5年かかれば、夫婦は80代になります。
谷内さん
「今はもう無人島だしね、私のところは。だから…もう生きている間に帰れるか帰れないか」
■必死に走ったあの日 「津波が来る!」
地震があった元日、谷内さん夫婦は自宅で、金沢近郊から帰省していた息子(39)と一緒に正月を過ごしていました。
自宅は海の目の前。大きな揺れのあと海の水が引いたため、急いで山の上に登りました。
谷内さん
「津波が来る!上に上がらないと!と。私は足がよくないもので、二人(夫と息子)に抱えてもらって必死に山を登った。足がガクガクして、涙が出た」
■寝る場所すらなかった自主避難所 帰省者多く混雑
避難所に行く道路も通れなくなっていたため、人々は自主的に近くの公民館へ。帰省してきていた人が多かったため、公民館には100人ほどが集まり混雑していました。正月のために用意していた料理などを皆で持ち寄り、過ごしました。
横になるスペースさえなく、谷内さんは2日間、座って寝たといいます。体調を崩してしまい、その後3日ほど息子の車で車中泊。そして、余震は続いていましたが体調が優れなかったこともあり、地震から一週間足らずで自宅に戻りました。散乱した物の一部を片付けましたが、暖房は使えず、地震で建て付けも悪くなっていて、余震が来る度に怖くておびえていました。
谷内さん
「誰とも電話が通じない、連絡がとれない」「あの10日間ほど、テレビも見たことがない、新聞も読んだことがない。地震の様子も分からなかった」
しかしその後、孤立していた集落の全員が集落の外に避難するよう指示があり、自衛隊のヘリで数人ずつ移送されることに。何日にもわたる「集落全員避難」が行われました。
■二次避難先は約160キロ離れ… 初めて集落の外で暮らす人も
谷内さん夫婦など集落の一部の人は、自宅から約160キロ離れた県南部の加賀市にあるホテルが二次避難先となりました。谷内さん夫婦より高齢で、これまで集落の外で生活したことがない人も多いといいます。
谷内さん
「ホテルにいられることは本当にありがたい。でもみんな帰りたがってる。(集落では)畑もあり海もあり家もあり、それで生活できていたけれど、今はそれもない。高齢だと避難先で働くこともできないし、気持ち的にも金銭的にも問題が出てくると思う」
■期限は「3月上旬」 次の行き先決断迫られる
突然の二次避難から1か月足らずの2月7日、ホテルで避難している人向けに今後についての説明会が開かれました。
このホテルでの二次避難者の受け入れは3月上旬まで。県からは、公営住宅を含むみなし仮設住宅などへ移る提案がされました。
谷内さんと同じ大沢町から避難した女性は、「仮設住宅への移動については若い家族の判断に任せる」としながら、こう胸の内を話しました。
輪島市大沢町から避難した女性
「立派なホテルにいても、自分の生まれたところに帰ることばっかり考えて今まで過ごしてきました。なんとかしてでも自宅に戻って、また畑でも行けば気も晴れるかなと」「人口が少ないので(道路の復旧は)一番最後でないとダメじゃないかなと、それが不安」
■集落は立ち入りすらできないまま 困惑する住民
道路が完全に復旧するには時間がかかりますが、周辺の集落では、車一台が通れるほどの道が確保され、出入りができるようになってきているといいます。しかし、谷内さんたちの住む大沢町は依然道が塞がったままで、住民は困惑しています。
谷内さん
「みなし仮設に移るとしても、バッグ1つで避難してきたので身の回りのものが何もない。今後私たちの集落でも、物や車を取りに帰ることができるようになるのか、全く情報がない。せめて帰省していた子供たちの車だけでも外に出してやりたいけれど…」
■「仲が壊れてしまう」人には頼れない心境
地震前は大沢町に一生住み続けるつもりだったという谷内さん。集落では輪島市内の仮設住宅に応募する人も多い一方、谷内さんは輪島を離れ、金沢市近郊に住む息子の近くに住むことにしました。
谷内さん
「輪島は市街地も被害が大きかったから、私たちが仮設に入るのは難しいと思う。県外の娘も親族もおいでと言ってくれたけれど、私たちは何も持って来ていないから結局世話になる一方になる。今の娘との仲がきっと壊れてしまう」
孤立した集落に何もかも置いて避難した住民にとって、今最も知りたい情報は「いつ帰ることができるのか」ということです。簡易的な復旧であっても「どのくらい進められているのか」「いつ頃であれば集落に出入りできる可能性が出てくるのか」といった情報があれば、先行きが見えない不安が軽減され、将来を考える道筋にもなるかもしれません。