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村山元首相 きょうで100歳に「どこまでも平和な国を願う」

2024年3月3日 15:37
村山元首相 きょうで100歳に「どこまでも平和な国を願う」

第81代内閣総理大臣を務めた村山富市さんが3月3日に100歳の誕生日を迎えました。

古里の大分県大分市で暮らす村山さんは「日本がどこまでも平和な国であり続けることを願っています」とコメントしています。

大分市出身の村山富市さんは1924年3月3日、漁師の家に11人兄弟の8番目として誕生しました。明治大学を卒業し、大分県職員の労働組合で労働運動に取り組みます。その後、大分市議会議員、県議会議員を経て1972年に衆議院議員に初当選。

日本社会党の委員長を務めていた時に自民党と新党さきがけの3党で連立政権を組みます。そして1994年6月、第81代内閣総理大臣に就任。いまから30年前の出来事です。

◆村山富市氏(当時・自民党控え室にて)「首班指名選挙で当選をさせていただきました村山富市でございます。こういう場所で初めてご挨拶するものですから。心臓のときめきを感じますけどもいまの政治を改革する。そのために私で役に立つならその信条に応えられなきゃいかん。こういう気持ちで決意をしました」

◆村山富市氏(1994年7月所信表明演説より)「我々が目指すべき政治は、人にやさしい政治。安心できる政治であります」

大分県からの初めての総理大臣誕生に地元も祝福ムードに包まれました。

しかし、在任中には歴史に残る様々な出来事が起こります。

1995年1月には阪神淡路大震災が発生。そして3月にはオウム真理教による地下鉄サリン事件なども発生し対応に追われました。

そして8月、戦後50年の節目に発表したのが村山談話です。

◆村山富市氏(当時)
「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします」

時の総理として初めて「侵略」や「お詫び」という言葉を使い、注目されました。

そして村山さんと言えばトレードマークの長い眉毛。愛称にちなんだ“トンちゃん”グッズも販売され話題になりました。

◆村山富市氏(1994年12月)「最近ネクタイいっぱい持っちょん言わるん」

首相になっても変わらないこの大分弁が飾らない人柄を表していました。

1994年12月 里帰り在任中に大分に里帰りした時には空港にも…そして家の前にも多くの出迎えが。

◆村山富市氏(1994年12月)「ゆっくり休みました。狭いながらも我が家が一番いいわ」

それから1年あまりが経った1996年の年明け早々。

◆村山富市氏(当時)「私は本日、内閣総理大臣を辞任することを決意しました」「与えられた歴史的な役割というものについてはある程度50年の節目になすべきことはなしてきたのではないか」と辞任を表明。在任期間は561日でした。

2000年に政界を引退した後も講演会を行ったり海外を訪問するなど精力的に活動を続けてきました。

総理大臣経験者として100歳を迎えるのは東久邇稔彦氏、中曽根康弘氏に続いて3人目。

存命する総理経験者としては最高齢です。

ことし2月23日には母校・明治大学のOBが大分市の自宅にお祝いに駆けつけ誕生日である3月3日付の新聞記事100年分をプレゼントしました。

100歳を迎えた村山さん。今は2人いるひ孫と遊ぶことをとても楽しみにしているそうです。

同居する次女の由利さんは村山さんの日常について次のように語ります。

◆次女由利さん

「朝は午前6時半ぐらいに起きてちょっと身支度してから散歩に行きます。(家では)早口言葉を言ったり、それから昔の自分の挨拶文を出してきて読んだりしています」

また総理時代から続く几帳面な一面も。

「自分で使った洗面所もきれいに毎日洗いますよ。今も洗面所を使ったら自分で全部やるんです。総理大臣のときも自分で靴下を洗っていましたよ」

激動の時代に総理大臣を務めた村山富市さん。100歳を迎えたことについて。

「100歳と言われても、実感で きない。今は1日1日を家族と 過ごせることを幸せに思っています。」

また、「日本がどこまでも平和な国であり続けることを願っています」ともコメントしています。

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