【箱根駅伝】東洋大・エース松山和希「今までで一番苦しい時期」 どん底から救った両親の言葉
「今まで陸上をやってきた中で一番苦しい時期だった」と当時を振り返る松山選手。前を向くきっかけをくれたのは、どんなときも応援してくれる両親の言葉でした。
■夢の舞台で鉄紺のエースに
松山選手にとって、箱根駅伝は夢の舞台でした。
「初めて箱根駅伝を見たときに、ここで走ってみたいという気持ちが芽生えて、将来の夢が箱根駅伝になったと思います」
子供の頃からの夢をかなえるために東洋大学へ入学し、その夢は1年目で実現します。
1年生で任されたのは、各大学のエースが集う花の2区。緊張やプレッシャーを感じさせない見事な走りで、1年生の日本選手2区歴代2位となる好成績をたたき出しました。
2年生でも2区を任された松山選手は、チームの順位を4つ押し上げる区間5位の快走を見せます。夢の舞台で名実ともに主役となり、鉄紺のエースの座をつかみ取りました。
■けがと病気に阻まれ 無念のメンバー外
しかし3年生の8月、順調だった松山選手に影が差します。足首を痛め、駅伝シーズンに向けた合宿は不参加。出雲駅伝と全日本駅伝は欠場せざるを得ませんでした。
同年の12月、けがから復帰した松山選手は苦しい表情を見せながら、箱根駅伝に向けた練習に食らいつきました。監督や仲間に支えられ、なんとか最後まで走りきった松山選手でしたが、直後にインフルエンザにかかってしまいます。最終的に箱根駅伝のメンバーには選ばれませんでした。
「なんとかぎりぎりつないできている中で、ここでか、というところでとどめをさされた」と3年目で初めてのどん底を味わいました。
■「やっぱり一番重い」両親からのメッセージ
松山選手はつらい状況を、両親に連絡できずにいました。前回大会は応援自粛が解除され、「1回くらい(現地で)見てほしいなと思っていて、でもチャンスを逃してしまったので、すごく申し訳ない気持ちが大きかった」と振り返ります。
松山選手の父・崇之さんは「せっかく応援自粛が解除されて、現地で応援することができる条件がそろった時に、肝心の自分がでられないというのは、我々には言いづらかったっていうのもあると思う」と連絡できない気持ちを理解していました。
落ち込む松山選手に両親が送ったのは「ここからは這い上がるのみ」というメッセージ。その言葉には「くじけず走り続けてほしい」という思いが込められていました。
このメッセージを受けた松山選手は「いろんな人から応援はよくされますけど、やっぱり一番重いというか。そこでなんとか気持ちを切り替えようという感じで頑張りました」と両親からの激励に奮起します。それからの1年、箱根の舞台に戻るために、松山選手はひたすら走り込みました。
■「強い自分を見せられたら」
どん底から1年が経過した2023年12月、グラウンドには先頭でチームを引っ張る松山選手の姿がありました。大舞台の当日は、支えてくれた両親に勝負する姿を見せます。
父・崇之さんは「まずは本人が、最後やりきったっていうのを持って終えてほしい。私たちもその姿を見たいので」とその姿を期待し、母・美有紀さんも「和希らしい走り、その日にできる自分の最高をやってくれればそれでいいかなと思います。楽しみです」と箱根駅伝当日を心待ちにします。
「強い自分を見せられたら親も安心してくれるかなと思うので、そこは走りで見せられればいい」と親孝行を誓った松山選手。22年間の感謝の気持ちを込めて、夢をかなえたエースの走りを見せます。