【箱根駅伝】米・統治下の沖縄から上京 箱根を駆け抜けたランナー 新城吉一さん「箱根駅伝はまったく頭になかった」
夢を叶えるため、パスポートを携え沖縄から上京
「結局、高等弁務官が許可しないと本土には渡れないという時代でしたから・・・」こう話すのは、新城吉一(しんじょう・よしかず)さん84歳です。新城さんの夢は、マラソンでオリンピックに出場すること。その夢を叶えるべく、21歳の時パスポートを携えて沖縄から上京し国士舘大学に進みました。
当時の国士舘大学は、箱根駅伝では新興勢力。第33回大会の初出場から5年続けてシード権を逃していました。一方で、新城さんにとっては初めて知る箱根駅伝です。その時のことについてこう振り返ります。「箱根駅伝はまったく頭になかったです。あの当時は、沖縄に東京のことを伝える報道機関がなかったんですよ。NHKも沖縄には入らないし、ラジオも入らない。今になって本当にすごかったんだなと思います」
箱根駅伝のことは頭になかったという新城さん。それでも出番はすぐに訪れます。1962年の38回大会では1年生ながら8区を任されました。走り出すと沿道の盛り上がりに圧倒されたと言います。
「箱根駅伝はすごかったですね。みんなテーブルを出して、沿道で飲み食いしながら応援してくれていました、当時は。前の選手が行ってあと何分ぐらいだよとか、後ろは離れているから追いかけろとか、ヤジみたいなものが飛ぶということもありましたね」
こう話す新城さんですが、11位で襷(たすき)を受けると区間6位と好走。チームの総合順位も10位となり、この年初めて国士舘大学はシード権を獲得しました。新城さんも「あの時、初めて国士舘がシード校に入ったんですよ。国士舘の伝統というのは僕らが走った時から始まっているんですよ」と誇らしげに振り返りました。
沖縄出身ランナーへ送るエール
沖縄県の本土復帰後、多くの沖縄出身ランナーが箱根路を駆け抜けています。先駆者でもある新城さんは、こんなエールも送ってくれました。
「僕は今の沖縄の高校生でも本土の高校生に負けないぐらいやっていると思うんですよ。他人を負かす前に自分の厳しさに勝てるような選手になってもらいたいと思います」