アグネス・チャン「すごい好きでした。初恋でした」 多忙なアイドル時代を支えた愛車との思い出
香港で歌手デビューした後、1972年に来日したアグネスさんは、楽曲『ひなげしの花』で、日本でも歌手デビュー。“香港から来た妖精”と呼ばれ大ブレイクしました。歌手・エッセイスト・初代日本ユニセフ協会大使、教育学博士を取得するなど幅広い活躍を見せています。
■日本でデビューしたきっかけは平尾昌晃さん
来日して51年目となるアグネスさん。日本でのデビューの経緯について、「元々は香港の学校でボランティア活動として歌を歌っていたら、14歳でスカウトされて翌年に(香港で)デビューしたんです。よく分からないけど、デビュー曲がヒットして、(作曲家)平尾昌晃先生が香港の私の番組に出演してくれて、(日本でアグネスさんの)噂をしてくれたんです。それで、“日本に来ませんか?”とスカウトされました」と明かしました。
日本での活動について、当時のアグネスさんは、「新しい世界に行ける。外国に行けるという好奇心があった。母はミーハーなので応援してくれた。父には、すごく反対されたけど説得しました」と明かしました。
■デビュー曲『ひなげしの花』でトップアイドルに
アグネスさんは1972年、17歳の時に、日本でのデビュー曲『ひなげしの花』が大ヒット。日本歌謡界で、一躍トップアイドルにまで登り詰めました。そんなデビュー曲の歌詞について、アグネスさんは「後から知ったんですけど日本語を間違えていると。正しい歌い出しは、“おかの上”なんですよね。“おっかの上”じゃないんです。全然気づかなくて20年後くらいに、歌手・由紀さおりさんに言われて、もっと早く(誰かが)言えば直したのに」と、苦笑いを浮かべました。
また、日本のファンの熱量には驚いたそうで、「あの時代、香港では人気があるとしても、(ファンが)声を出して応援することはなかった。(日本では)歌にあわせて“ア~グネス!!”と言ってくれて最初は本当にビックリした。うれしいけど、自分が歌っている声が聞こえない…エネルギーがすごかった」と、振り返りました。
さらにデビューの翌年、上智大学に入学したアグネスさん。アイドル活動と学生生活の、二足のわらじについて「女子大生に憧れていた。本当に寝られなかった。いつも“何がしたい?”と言われたら、“眠りたい”と文句を言っていました。歌番組で人が歌っているときも、すごい頑張って目を開けていました」と、かつての多忙を極めた生活を明かしました。
■人気絶頂のなか、カナダへ留学
そして、デビュー4年目、疲労困ぱいしていたアグネスさんに助け舟が…「眠れない、食べられない、満足に学校に行けない、お友達ができていないという日本での生活を見た父から、“これは普通の女の子の生活じゃない。周りがちやほやして、自分が偉くなった気持ちになってはいけない。頭を冷やしてこい!”」と、父親から留学を勧められたそうです。
一方、アグネスさんの母親は留学に反対。それに対して父親は、“お金や名声は流れもので奪われるもの。でも一度 頭に入った知識は一生の宝”と、母親を説得したそうです。その言葉を耳にしたアグネスさんは、「なんて、いいことを言うんだろう」と思い、人気絶頂の中、カナダのトロント大学への留学を決めたと言います。
■留学中の愛車、アグネス・チャン「初恋でした」
留学中、通学のため現地で自動車免許を取得したアグネスさん。初めて購入した愛車が初代シビックでした。
1972年に登場した初代シビックは、FR(後輪駆動)3BOXカー(セダン)が主流だった時代に、国内に類を見ない台形デザインのFF(前輪駆動)2BOXカーで注目を浴びました。ヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーで、国産車初の3位に入賞するなど数々の賞に輝き、発売以来わずか4年で、生産累計100万台を達成。国内外問わず、まさに“市民のクルマ”としての大きな1歩を踏み出しました。
初めての愛車との久々の再会に、アグネスさんは「超懐かしいです。抱っこしていいですか?」と、ボンネット部分をハグ。この車を選んだ理由について、「すごい人気があって、丈夫で長持ち、安全だし、(学校を)卒業して車を売るときに値段が下がらないということで、新車で買いました」と回顧。
シビックの思い出について、「カナダは大雪になると、車が完全に埋もれて見えなくなる。やっと見つけて(車の)鍵を入れようとするけど、鍵穴が凍ってしまって入らないの。口の中に鍵を入れて温めたりするけどダメだった。結局、他の人が“これ貸してあげる”と言って、貸してくれたのが、BOXのような電池を入れて鍵を温める道具。カナダでは常識だったみたいで、温めた鍵で何回かやるとやっと開くんですよ」と、寒冷地ならではの苦労を明かしました。
一方、シビックが活躍したエピソードも。アグネスさんは、「雪の日に他の車は坂道を登れないけど、私の車は小さくて4輪ともスノータイヤ、FFで前にエンジンがあるからオフロード車みたいに登れちゃう。周りが大拍手してくれてスゴイ自慢でした。“私の車はどこでも行けるんだよ!”と優越感がありました」と、愛車を誇りに思ったそうです。
久しぶりに愛車に乗車したアグネスさんは、「(車は)自分で運転すると自由って感じがする。1人だけでどこ行ってもいい。いつ行ってもいい。(音楽など)何を聴いてもいいし、止まって何を食べてもいい。(デビュー後は)そういうことができなかったの、 ずっと。この車が、すごい好きでした。初恋でした」と、愛車は心のより所だったと言います。
■アグネス・チャン「乗り心地が最高」 日本の頂点に立った愛車
続いて登場したのは、アグネスさんが30代~40代を共にすごした愛車『トヨタ セルシオ』。メルセデス・ベンツや、BMWなど、ヨーロッパの高級ブランドマーケットに参入すべくトヨタが立ち上げたブランド・レクサスのトップモデル『レクサス LS400』の日本仕様車として1989年に登場。根本から振動、騒音を極力発生させないことを実現し、走行性能と快適性能を高い次元で両立しました。セルシオの登場は、外国車にも大きな影響を与え“高級車の新たな標準を作った”と言われ、1989年~1990年の日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞しました。
かつての愛車と対面したアグネスさんは、「優しい顔でしょ! “私カッコいいでしょ?”と主張していないのがいいんですよね。この車で車酔いをしたことがない。乗り心地が最高なんです。揺れないからホントに(後部座席で)よく寝ました。後ろ座ったら、もう車から出たくないと思うほど気持ちがいい。セルシオは、ボロボロになるまで乗って、一生忘れられない恋という感じ。手放さなくても良かったのかな」と、愛車を懐かしみました。
■家族との思い出が詰まった愛車
最後に登場したのは、アグネスさんが50歳を機に購入した愛車『トヨタ WiLLサイファ』。複数の異業種企業が立ち上げた『WiLL』プロジェクトの中で、2002年にトヨタが発売したサイファ。英語の“サイバー”(コンピューターの)と、馬車を意味する“フェートン”をあわせた造語で命名されました。特徴は個性的なボディーデザインや、情報ネットワークサービス『G-BOOK』を搭載。飲食店などのエリア情報や、エンタメ情報、地図情報などが入手でき、またオーナーの嗜好(しこう)にあった設定をカスタマイズできることから“育てるクルマ”と呼ばれました。
サイファを選んだ理由について、アグネスさんは「50歳になったから、自由行動がしたいなと思って、いろいろ調べたら最先端の車だった。漫画に出てくる未来の車みたいな。(約20年前から車で)インターネットや、Eメールが使えました」と、当時は画期的な装備だったそうです。
また、サイファにまつわるエピソードについて、「この車で、家族とサファリパークに行った。動物がいっぱい寄ってきて、その中でも、ロバが“餌ちょうだい”とすごい積極的で、怖くなって窓を閉めたら、ここ(ドアバイザー)を“パリ パリ パリ”とかじられて壊れたんです。新車なのに! 子供たちは後ろで、笑いこけて」と、家族との忘れられない思い出を明かしました。